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語られないものばかり語られる

言葉にすればするほど、言葉にしないものばかり見えてくる。

今読んでいる本で下記の一節が目に留まった。憲法の本なので本筋ではないのだが、どうにもこうにも目に留まった。

「言葉にする」ことは、他であり得る可能性を認識しつつ、「あえて」他の可能性を否定する作業なのである。—— 木村草太『憲法学者の思考法』(青土社、2021年)

憲法は国家と国民の約束だ。約束は理想であり、理想は現実の反射である。憲法が平和を語るのは平和じゃなかった過去を照らしたいからだ。多様性の認められた社会で多様性は語られない。語られないものほど語られている。

林檎が好きだという言葉は、林檎以外の果物が好きではない可能性を示唆する。言語化の消極的な作用。その語りが強調されればされるほどに「それ以外の何か」が否定されてしまう。

これは法律学において「反対解釈」と呼ばれるものを連想させる。自動車の運行が禁止された道は自転車なら走ってよいと解釈できる。だが窓から手を出しちゃいけないと言われたとき、足は出してよいかと尋ねるのはただのひねくれ者だ。反対解釈ではなく趣旨を理解していないにすぎない。

先日、これにまつわる話が記事になっていた。「夜8時以降の外出は控えて」を「昼なら気にせず外出してよい」と誤って解釈する人が増えているのではないかという。記事には次のように書いてあった。

こうした現象は社会学用語で「メタメッセージ」と呼ばれ、言語以外の情報から発信が本来の意図を超えること、と定義される。発信者の表情や声のトーン、逆説的な解釈や裏の意図などの「行間」を読まれることで起きるとされる現象だ。—— 産経新聞「外の酒盛り、ランチならOK? 誤解されるメッセージ」2021年2月18日(掲載先

メタメッセージは暗喩に近いものだと思っていたが、この記事では誤読に文脈で使われている。その違和感はともかくとして、こじらせた解釈が些か横行しているというのは事実なのだろう。

人は見ようとする世界しか見えない。見えないものを見る力は想像力とも呼ばれる。

それは妄想力と紙一重である。「ここのランチ美味しかった」と写真をアップすれば「おしゃれな自分自慢か」と言われ、「寝てない」とつぶやけば「忙しいアピール乙」とあしらわれる。見えるものより見えないものに目を凝らしすぎて疲弊し合う。とかくに人の世は住みにくい。

言葉は世界を区切る。輪郭の曖昧な雲のような世界に線を引く。

線から右側が林檎だとすれば、左側は林檎ではなくなる。右側にさらに線を引けばフジと「フジ以外の林檎」に、後者はさらに津軽と「フジと津軽以外の林檎」へと細分化されていく。人に嫌いなものを語らせれば好きなものが輪郭線を帯びて浮かび上がってくるのもそれだ。区切るとは、常にその境界線の両側に意味を持たせることである。

何を語るかが知性で、何を語らないかが品性であると誰かが言っていたのを思い出した。境界線の両側を見るために必要なのがどちらであるかは考えるまでもない。

言葉にすればするほど、言葉にしないものばかり見えてくる。それをわかっていながらこうして言葉にしたいのだから、呆れてものもいえない。

今これを読んでくれている人には何が見えているのだろう。


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