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I am free and that is why I am lost.

やりたかったはずのことが、いつの間にか変わっていたりする。

これからここに書くことは、森本しおりさんの以下の記事を読んで考えたことです。森本さんがお伝えされたかったメッセージとは趣旨が違うかもしれませんが、noteに限らず色々と考える機会をいただきました。きっかけをくださりありがとうございます。

自由な意思は、制約がないからこそ簡単に揺り動かされる。意思の強さを過信するだけ、振り返ったときの足跡が真っすぐではないことに驚く。

ぼくらは情報を掌の上で踊らせているのか、それとも情報の渦の中で踊らされているのか。自分で取捨選択している情報のはずなのに、気付くとそいつらに手を引かれ、思わぬ場所に連れてこられてしまっていたりする。

人は、すぐに視界を失う。


アーキテクチャの権力

書き進めるにあたり、以下の本から引用をします。法律論を書くわけではありません。この本は、随所に生きるためのヒントがあって参考になります。

私たちは本当に、リベラリズムが考えた〈強い個人〉なのだろうか。むしろ、入手可能な情報の量には限界があり、それを判断する能力も限られている〈弱い個人〉に近いのではないだろうか。仮にそうだとすれば、自由な意思決定の帰結として自己責任を求めることにも限界があるということになるだろう。(P.86)

これは、本書の前半が「法とは何であるべきか?」(正義論、法価値論)を「自由」の観点で論じた部分です。筆者は、国家からの自由とその制限の歴史を解説したうえで、現代社会における「自由」の在り方を展望します。

人は空を飛びたいという願望を持っています。でも飛ぶことはできません。これを「自由が制限されている」と感じる人は、普通いないでしょう。人が空を飛べないのは、誰に課されたものでもない「自然の制約」だからです。

しかし、自分たちを取り巻く環境自体が操作可能であれば話は別です。特にインターネットやSNSの発達したデジタルの世界では、何ができ何ができないかは、基本ソフトやアプリケーションの設計者・作成者の意思に依存します。それは意図的に作られた制約であり、人が空を飛べないのと同じような自然の制約とは異なるものです。

われわれが同意したり反発したり、あるいはそれに気づくこともないうちに、どのようなことが物理的に可能かという〈行為可能性〉自体が狭められているというのである。(P.85)

ぼくらは、Googleを、LINEを、twitterを使わない自由を持っています。誰からもその使用を強制されることはありません。

しかし多くの現代人にとって、今やインフラと化したこれらのサービスを使わずに生きることは難しくなっています。サービスは日々アップデートを繰り返しますが、ぼくらは基本的にそれを受け容れる以外の選択肢を持ちません。概ねの場合、新しい環境に対する違和感も所詮は時間の問題です。

こうした誰かの作ったルール、すなわち「人々が行動を選択する際の環境」(アーキテクチャ)は、法律と同等あるいはそれ以上にぼくらを翻弄し、自由に影響を与えます。階段かエスカレーターかで人の流れが左右されるのもアーキテクチャの1つであり、決して新しい概念ではありません。

ただ、デジタルの世界が広がるにつれて、アーキテクチャを意識する場面は増えています。人は元来から環境の影響を強く受ける「弱い個人」であり、自由意志に基づく自己決定、自己責任を強調しすぎる風潮は見直されるべきではないかという言説には、一定の説得力があります。

人の意思って、そんな強くないんだと思います。


選んだ情報に選ばれっぱなしにならない

今やあらゆるオンラインサービスで、閲覧履歴に基づくおすすめが表示されます。そうした行動ターゲティング広告、広義にプロファイリングは、ユーザーの行動に大きな影響を与えています。

また法律書かよですが、以下の本から少し引用します。

行動ターゲティング広告によって消費者に個別化された広告が配信される場合、消費者はその個別化された広告に固着し、能動的に他の選択肢を探そうとしない傾向を持つ。その結果、消費者は、視野狭窄に陥り、自ら選択する楽しみや学習の機会を失ってしまう。(P.134)

本書では、AIの発達によりターゲティング広告の精度が高まるつれ、「適切な提供情報」(ナッジ)から消費者の意思形成への「不当な介入」に変化することが危惧されています(この問題は、消費者契約法の改正を巡る自己決定権の問題としてとても興味深いのですが、ここでは立ち入りません)。

人はどんなものにも慣れる生き物ですが、SNSは、その「慣れ」を格別早く感じさせます。ちゃんと使い始めさえすれば、先回りをするかのようにユーザーにとって「居心地の良い環境」を用意してくれるからです。

この点については、前にこんな記事を書きました。

ディープラーニングの発達が促したターゲティング広告を見続ける。欲しかったもの、好きなものに囲まれる。SNSやニュースアプリで自分の好きな情報をフォローする。自分と同じものが好きな人たちと、好きなものを共感し合う。気付けば、目の前に現れた世界は自分の引きたかった分節線であらかじめ区切られている。ズレがないから気持ちがいい。ずっとそこにいたい。こうしてぼくらは、ナチュラルなコミュニケーションに溺れていく。共感を促してくる社会から、一歩退ける勇気が試されている。

Amazonには「あなたへのおすすめ」があり、noteにも「閲覧履歴にもとづくおすすめ」の機能があります。Twitterで、他人の「いいね」がタイムラインに流れて来る機能には賛否両論あるようですが、現時点ではこれを公式にオフにすることはできないようです。

こうしたSNSの仕様は、ユーザーの利便性を高めることの方が多い反面、本人の趣味・嗜好を無意識のうちに誘導、固定し、視野を狭窄させます。自分の選び取ってきた情報が、いつの間にか自分を囲い込み、身動きを取りづらくする。自分が選んだ情報に、進むべき方向を選ばれてしまっている。

これは、情報を自ら主体的に選んでいると強く思っていればいるほど、気付きにくいことのように思います。自分の意思の強さを過信するよりも、環境の影響を簡単に受けてしまうものなんだと割り切る方がよほど健全です。

かつて、フランツ・カフカはこう言いました。

I am free and that is why I am lost.
(わたしは自由です。だから道に迷ったのです。)

見ていたはずの視界を失う「迷い」と、複数の道を前にしてどこへ進むかの「迷い」。本当の自由は、後者の迷いであるはずです。それは、自分の意思の弱さを認めることからしか始まらない気がします。

今ぼくは迷っています。視界は、少し霧が晴れてきたぐらいですが、見えてきた道はどれも楽しそうです。

次、何を書こうかな。

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