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知ることは、守ること

最近、よくそう思う。

自分の目に直接は映らない、遠く離れた地の出来事に日々触れている。否応なしに手元の小さな液晶へ飛び込んでくる情報の断片は、真実かどうか確かめられぬまま積もりゆき、繋ぎ合わせてもなおその輪郭を定かにしない。

にもかかわらず、無性にそうした断片を繋ぎ合わせたくなることがある。遠いところで起きている、自分には関係のない世界のことなのに。

なぜ、知りたいのだろう。

一つは、いわゆる知的好奇心。興味あるもの、好きなものは知りたくなる。知りたいから知りたい。好きなものは好きなのだ。好きに理由は要らないのと同じだとしたら、知的好奇心は愛に置き換えられるような気もする。

もう一つが、わからない。いや、そもそも2つじゃないのかもしれないけれど。別に知りたくもないのに、知りたいと思ってしまう。怖いもの見たさとか呼ばれるやつに、どこか似ている。

たとえば、大きな事件が起きたとき。見舞われた人々に対する憐憫の情、社会を揺るがす事件(≒常識)を知らないとは言えない羞恥心、それを目の当たりにした当事者としての緊張感あるいは高揚感。人によって違いはあれど、概ね思い当たる動機はこの辺にあるように思う。

でも、もっと根源的な理由がある。単純に、怖いのだ。

「何か」によって自身の安全も脅かされるのではないかという直接的な恐怖。それ以上に、遠く離れたところにある現実の原因、実状、影響のどれもが漠として掴めないことによる心理的安全性の欠如が、自分を動かす。これを間接的な恐怖と呼ぶのかどうかは別として、思い返すほど、そこには「恐怖」があった気がしてくる。

お化けとは怖いものではなく、怖いから生まれたものなのだ。なじみのない世界の悪魔払い、理解可能なものへの秩序化こそ妖怪であり怪談である。だから神もまた妖怪であり、神話もまた怪談である。言語もまた同じなのだ。怪談ができれば、神に責任をなすりつけられれば、言語によって説明できれば世界は恐ろしくない。人は孤独に苛まれることがない。
宮下誠『20世紀絵画 ~モダニズム美術史を問い直す~』(光文社新書, 2005年)

言葉によって説明できれば世界は恐ろしくない。言葉によって世界を説明できるようになるとは、知ることに他ならない。だから知りたい。恐怖から抜け出すために。

一方で、知らぬが仏という諺があるように、知らないでいれば、恐怖や不安に怯えることもなく、心の平穏を保っていられる。知らない方が、自分を守れるときがあるのだ。ノイズ紛れた情報の波に飲まれそうになる毎日。この諺が示唆するところは、一昔前に比べて増えたように見える。

でも、知らなければ誰も守ることはできない。遠く離れた地にある恐怖や不安。それが近づいているかもしれないのだとしたら、誰かを守るために、その事実を知っておく必要がある。

恐怖や不安の接近を伝えたら、かえって怯えさせてしまうかもしれない。伝えてはいけない。伝えてもいいけど、今ではない。伝えてもいいけど、その伝え方ではない。どれも、予め知っていなければできないこと。相手をよく知ってなければできない。何も知らなければ、誰も守れなんてしない。

自分を守るためには知らなければいけないが、ときには知らない方がいい。でも誰かを守るためには、知らなければいけない。3つめの「知りたい」は、いざというときに誰かを守りたい気持ちなのかもしれないと思ったが、深夜、どうしてこんなことを考えているのかさっぱりわからないし、眠くてもう知る由もない。

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