学びが働くを支える
不甲斐なくも例のアイツにかかってしまい、数日間、家の仕事部屋に閉じこもる隔離状態を続けていた。西日の差す部屋はカーテンも開けづらい。暗がりを見つめるほかない高熱のぼやけた頭では、物思いに耽るのがせいぜいだった。
最近、何も学んでいないなと思う。
昔、上司がよく口にしていたのを思い出す。帰り道で良い店を見つけたとかでもいいから、今日の自分が昨日より成長したと思えるように生きろと。
一時は毎日組まれていたような気もするそんな更新プログラムは、いつからかぱたりとアップデートをやめてしまった。アンインストールされてしまったとまでは思っていない。動かないのだ。再起動するために何が必要かを調べるのも億劫で、重い腰が上がらない。
noteを書いていることは、会社の仲間にも知られている。
思った以上に色々な人に読んでもらっているらしく、声を掛けられ喜んではたまに驚いている。こないだなんて、前の部署の先輩から2年ぶりにLINEが来たと思ったらnoteの感想だった。そんなきっかけにもなるかと思うと、細々とでもここで書き続ける意味はあるのだと改めて実感する。
そんなわけで、仕事に関してネガティブな言葉はここに置かないようにしてきた。楽観主義か鈍感ゆえか、そもそも仕事で塞いだ気持ちになること自体があまりないので、意識的に話題を選んでいたわけでもないけれど。
だが、人となりを知ってもらえるなら多少なり鬱屈した話でもいいかなどと思い始めるくらいには、高熱はすさんだ心をもたらすらしい。
随分と前にどこかで、働くとは「傍(はた)」を「楽」にさせることだと教えてもらった。自分ではない誰かのためにと諭すこのフレーズは、働くうえでいくつか持っている信条の一つになっている。
あなたの喜びはわたしの喜び。いつもそう思えたらすべての仕事は順風満帆なのだが、生憎そんなわけもない。だから、どうにかして日々やりがいを見い出す。やりがいが薄いと感じたり、虚ろに探し求めたりするのは、決まって喫緊の仕事にばかり目が行って焦点が近くなっているときだ。
そんなときこそ、学ばないといけないと思う。
学びは、前のめりになった身体を机から引き剥がし、離れたところからそんな自分の姿を客観的に見つめるきっかけになる。何かを身に付けるだけが学びではない。すぐ研鑽モードに入る必要もない。何であろうと、今まで見えていなかったものに気付いたときに視野は広がるのだ。
一度で広がらなくとも、重ねる中で見えてくるものもあるだろう。その過程すべて多少なりとも前進であるならば、やはり、帰り道で良い店を見つけられる方がいいのだ。在宅勤務のときには、夜な夜な散歩をしてでも。
まだ呆けたままの頭で書いたこの千字ほどの文章が、再起動のきっかけになったりするかもしれない。少なくともアンインストールはまだ多分、されていない。
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