見出し画像

夜涼みの缶ビール

考えごとをしていて、いつもどおり散歩へ出た。療養期間が明けて久しぶりに吸い込んだ夏の空気は、早くもどこか秋めいている。

季節ごとにタイトルを付けはじめて一年。この時期はどんな言葉があるのだろうと思って少し調べたら、良さげなのが見つかった。よすずみ。二文字で「やりょう」でもいいらしいが、夜道の足取りに関わるので夜涼みの散文とする。

整理、という言葉がある。

仕事をしているとよく出くわす。記録の曖昧な情報、数字の合わない根拠、部署間での意見の対立。少々都合の悪いことに一旦の蹴りをつけたいときは大体こいつのお世話になる。

何年も前、仕事を一緒にしていた別の部署の人がこう言っていた。

「ぼくはね、整理って言葉が好きじゃないんです。どこか逃げ腰で。ちゃんと判断って言えばいいんですよ。白黒つけるのだから」

整理と判断。字義どおり読めば、前者は込み入った状態に秩序を与え整えることであり、後者は判じて断ずる、つまり見極め決定することだ。

判断にあって整理にないもの。それは明確な主体だと思っている。

整理にも「整える」主体は存在するが、そこでは「あるべき秩序」が前提になっている。元よりそうなるはずであった、あるいは誰もがそう考えて然りであるという、暗黙の了解に似た静かな圧力が働いているように見える。

主語が不在の判断はあり得ない。断じたのが誰か曖昧であれば、判断の価値は半減する。信頼や責任と表裏一体の関係にあるからこそ判断なのであり、誰にも紐づかないそれは判断たり得ない。

実務上は整理だろうが判断だろうが、主体さえ明確になっていれば何ら支障はない。他者からすれば、そのとき決せられたという事実は同じだ。

あのとき彼が零したひと言を忘れられないのは、繰り返し自戒に駆られる自分がいるからなのだろう。決める立場にありながら及び腰になってんじゃねえよと。


折り返し地点にある公園のベンチに腰を下ろしたら、後ろの草藪から野良猫が飛び出してきた。早めのおやすみを邪魔してしまったらしい。きっと彼の一週間もまた明日から始まるのだろう。

去年散歩をし始めたのは九月だった。今宵はまだ、虫の音も遠くからかろうじて届く程度。昼間に降った雨の余韻はなく、公園の明かりをかき集めた空には輪郭の覚束ない雲が漂っている。

隣に置いていた金麦が空になった。帰宅の合図だ。

暑さに嫌気が刺すのも束の間、もう夏が恋しい。身勝手で、早合点がすぎる。この夏がいつまでかなんて、誰も決めていないのに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?