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「読むこと」と「書くこと」と「生きること」との間には柵がない。

書くことが好きな人には響きそうなこの記事のタイトルは、丸山圭三郎『ソシュールを読む』(講談社学術文庫, 2012年)の「あとがき」から。以下、本書の引用に日々思うところを重ねながら、学生時代から興味の尽きないソシュールについて書いてみる(タイトル画像はwikipediaから借用)。


ソシュールって誰

フェルディナン・ド・ソシュールは、20世紀の初めにスイスで活躍した言語学者。著書は無く、残された手稿と彼が大学で教鞭をとった「一般言語学講義」の聴講生のノートだけが、その思想を紐解く手掛かりになっている(これがまた謎解きのようで興味をそそる要因)。

20世紀後半の世界を席巻した構造主義・ポスト構造主義をはじめ、彼が言語学批判を通して現代の諸科学に与えた影響は大きい。この点について、本書は冒頭で次のように述べている。

経済学批判者としてのマルクス、哲学批判者としてのニーチェ、心理学批判者としてのフロイトと並んで、ソシュールが言語学批判を通して19世紀パラダイムの地殻変動を用意した思想家の一人であった。(p.21)

筆者の丸山圭三郎は、日本の言語学者で、世界的にもソシュール研究の第一人者とされる。同氏は本書よりも前に『ソシュールの思想』(岩波書店, 1981年)を上梓しているが、2年後に書かれた本書の原本のほうが、その理論展開にエッジが利いていて面白い。


言葉で世界を区切る

ソシュールの最も大きな功績の一つに、「言語名称目録観」の批判がある。彼は、「言語=世界に存在する事物に対して与えられた名称」という従来自明のものとされていた言語観を否定し、言葉と世界の関係を根本からひっくり返した。言語は、複雑な連続体(カオス)である現実世界を分節化する作用であり、その分節化の尺度は人間の都合によるものでしかないと考えた。

(言語名称目録観とは)山という実態を日本語では「ヤマ」と呼び、フランス語ではmontagneと呼び、英語ではmountainと呼ぶような考え方であって、これは先に見た記号の価値の本質からはほど遠い錯覚なのです。語の価値は体系内の対立関係からのみ生じ、…コトバ以前の純粋概念も、ア・プリオリに分節された事物も存在いたしません。(p.142)

事実、「山」を厳密に定義しようとすると、たとえば「丘」との区別、すなわち隣接するものとの違い(対立関係)を説明することを避けられない。あらゆる事物は関係的存在であり、「ではない」という否定的な要素によってしか定義できない。そして、その定義(分節線)は言語(文化・社会)によって異なるとされる。

日本語は、いわゆる「周囲よりも高く盛り上がった地形」を「山」「丘」のほか「丘陵」「山岳」などの言葉で表現する。しかし、フランス語をはじめとした外国語が必ずしも同じように表現しているとは限らない。

日本語がそのように現実世界を区切ったのは、その境界線の引き方がぼくらにとって意味(価値)があるから。英語の「rice」が、日本語では「稲」「籾」「米」「飯」という単語に分かれていることを考えるとしっくりくる。分節化の尺度に必然性はなく、その文化・社会が共有する「価値」に基づいて恣意的に区切られているにすぎないというのが、彼の思想の根底をなしている。

 (あらゆる事物・概念は)マグマ状の意識と世界に分節線を画した時にはじめて生れたものであり、それらがそのように分割されねばならない自然的根拠はまったくない。… 二つの概念の境にある分節線が外れると、一方が他方の意味内容をそっくり包摂してしまったり、逆に新たな分節線が引かれると、かつては一つの概念だったものが、新しい二つの概念となって誕生するのです。(p.142)

言葉の数だけ対象が存在するのではなく、言葉の数だけ世界が細分化される。「米っぽいもの」が1.0という面積をもつ対象だとすれば、英語はこれをrice=1.0と捉え、日本語は稲=0.2、籾=0.1、米=0.4、飯=0.3と捉えているといえる(数字は適当)。もっとも、日本人であっても農業に全く縁のない人であれば稲と籾を識別する必要(価値)はないから、その人にとっては稲っぽいもの=0.3、米=0.4、飯=0.3かもしれない。

すべての価値は隣接する価値もしくは対立する価値に依存する(p.248)

ここでいう「意識と世界」には、当然ながら「思想」も含まれる。この記事のタイトル画像にある英文も、次のように理解することができる。

思想は、それだけ取ってみると、星雲(nebula)のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない。予定観念などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ分明なものはない。(p.49)


言語化という創造的な営み

近年、以前にも増して言語化の重要性が取り上げられている。書店でも言葉に関する本が平積みにされているのをよく見かける。この背景には、SNSの発達により個人の情報発信力が高まっていることに加え、その所与の条件として、言語化が持つ極めて汎用的かつ創造的な作用があるように思う。

ここでいう言語化とは、前述のとおり「現実世界を切り取る作業」であるから、「書くこと」だけなく「読むこと」も意味している。「読む」という行為は、固定されたルールの下で誰もが同じ答えにたどりつく受動的な解読行為ではなく、「読む」側が対象に新たな意味を付与する創造的行為であるという。そもそも、「書く」というアウトプットが「読む」(ここでは「理解する」に近い)というインプットなくしては有り得ない以上、両者は表裏一体の営為ともいえる。

ソシュールは、同一の文化・社会に存在する一定の言葉のルールを「ラング(langue)」と呼んだ。人はラングという制度の中で言語化を行うが、全員がまったく同じ目盛りで世界を分節化するわけではなく、分節線には微妙なズレが生じる。

このズレは、時間の流れとともに、一見するとルールとして固定されたラングを変化させていく。すなわち、個人の実際の言語化(ソシュールはこれを「パロール」(parole)と呼んだ)が、あらゆる瞬間に世界の再布置化を試み、価値創造に取り組んでいるといえる。

文化の構造が恣意的文節から成っているからこそ…新たな截ち直し、再布置化の可能性が存在する…ラングの価値自体をパロール活動の側からゆさぶり変革していくことが出来る。(P.325)

人は現実世界をありのままに見ることはできず、現実を自分に合わせて見るとも言い換えられる。生きるということは、世界を解釈し続けることを通じて、自身が構築してきた世界を見るためのフィルターを絶えず組み替えていくことにほかならない。

繰り返し繰り返し命名を通して、知覚と感覚は刻一刻と密になる認識の網目によって再構成を強いられる。事物(世界)と意識(人間)というものが相互に差異化されていく。(p.58)


自分にしか見えない分節線を引く

世界を見るためのフィルターの目盛りは十人十色であり、ソシュールの言葉を借りれば、その差異こそが価値である。パロールがラングを「ゆさぶり変革」せしめるというのは、価値観の多様化が進む今の時世において、個人の情報発信が社会を変え得る力を持っているということと似ている。

と言いながら、ぼくは書くことにそこまで大層な野望は持っていない。無限の解釈の余地があるこの現実世界を読み取り、自分が知らなかった分節線を引くことは楽しい。そして、その線の引き方が自分以外の誰かと相通ずると、何だかわからないけど嬉しい。これを共感と呼ぶのかどうかはわからないけど、今この文章を書いているモチベーションはこれに尽きる。

先に書いた「トップアスリートは名前もカッコいい」と「聖蹟桜ヶ丘という駅名は最高にカッコいい」の記事も、それこそカッコよく言えば、取るに足らない事実をアホほど食い入るように覗き込んだ結果、そのときのぼくに見えた差異で分節線を引いたものといえる。

世界を見るためのフィルターの精度を上げると、少なくとも自分にとっては、くだらないものも楽しく見えることがある。それは、もしかしたら他の人は気付かなかった世界の楽しみ方(価値)を知れたということであって、実はとても幸せなことかもしれない。何かに興味を持ち、それに詳しくなるというのは、対象を細分化し、解像度を高めるということだと思っている。

作品ばかりでなく私たちを取りまいている世界自身が、見られ、読まれ、聞かれる存在です。つまり絵であれ、文学であれ、哲学の論文であれ、音楽であれ、あるいは文化現実であれ、また文化現実に分節される以前の<カオス>であれ、読み取られる行為によって生命をもつというか、新しい生を生きるのではないか。(p.38)

どこに分節線を引くか次第で、世界の見え方は変わる。誰かと違う線の引き方をすれば、それが他者との差異となり、オリジナルのものとして価値を生み出す。誰かが引いた線の引き方であっても、それを違う対象に当てはめれば、今まで誰も見ることのなかった世界が見えるかもしれない。

今この瞬間も、ぼくは世界に新しい線を引こうとしている。

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