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変わらないために変わる

「変化」はいつから「成長」を含意するようになったのだろう。

多様な価値観が入れ替わり立ち代わり現れる毎日に、すっかり慣れてきてしまっている。頼みもしないのに「これはどうですか」「それならこっちは」と声を掛けるようにして目の前に流れてくるそれは、まるで回転寿司みたいだなと思う。

欲しければ手に取ればいいし、取らなくてもいい。次がすぐにまた流れてくる。だが気になってしまう。自分の取らなかったお皿を手にした誰かが美味しそうにそれを口にしていたら。自分がそれを食べたいだなんて思っていなかったにもかかわらず。

価値観とは、受け入れるものだと思っている。理解できなくたっていい。理解できなくともその存在を認め共存することに意味がある。

みんな違う人間なのだ。その受容に必要なキャパシティも多様で当然であって、何も相手の立場に自分を置き換える必要もない。もちろん、それができれば望ましいんだろう。でも、できないのに無理して足場を見失うぐらいならやらないほうがマシだし、そもそも、そんなにキャパのある人ばかりじゃないと思う。広がりすぎてるから。視界が。世界が。

だからこそ、変化に強い者、変化を好む者が一層肯定の対象になる。変わることに二の足を踏んでいるぐらいなら、まずは足を前に進めることが是とされる。それに、立ち止まっているより動いている方が目に留まる。立ち止まっている姿に気付いてくれなくていいのに、忘れてくれてていいのに、誰かがどこかから「行かないの?」と声を掛けてくる。

変化するために意思が必要であるのと等しく、変化しないためにも意思は必要なのだ。どうしてだか、そんな当たり前の事実を見過ごしがちで困っている。強風に負けないよう根を張る草木の強さなら無条件に肯定するというのに。

吹きつけた風を追い風にするにしろ耐え忍ぶにしろ、そこには明確な意思がある。吹き飛ばされることのないよう、足場を確かめ続けるしなやかで強い意思が。

根は見えない。強風に煽られないよう張りめぐらす根は、ただ静かにその先を地中で太く深く伸ばしていく。立ち位置を変えないために、周りの目に留まらないところで強かに変わろうとしているものに、自分はどれだけ気付くことができているだろうか。

時代は前進を肯定する。成長、変化と巧みに言葉を変えながら迫ってくる多様とも言えない価値観の群れは、立ち止まり続ける勇気に揺さぶりをかける。その外力に耐える意味を疑ってはいけない。

変わらないために何かを変えざるを得ない選択をしている人はたくさんいる。そのごく当たり前の事実を照らすスポットライトが、足りていないような気がしてならない。たくましい幹から葉を生い茂らせるために根を張ることは、どんな変化と比べても遜色のない「成長」であるはずなのだ。


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