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「わかりやすさ」と偶然

「わからない」って、やっぱり楽しいんだ。

いつも「わかる」ことばかり急いでいる。自分の周りから不確実なものを排除しようと躍起になってばかりいる。わからなければ先に進むことはできない。減速するしかない。でも、周りの景色を楽しむことができる。アクセルを吹かしたままでは目に留まることもなかった景色を。

不確実性はとかく嫌われやすい。予期せぬ出来事は心身をすり減らすことの方が多いからだ。先行き不透明な未来への挑戦が称賛されるのは、それを避ける人が多いからにすぎない。数えきれないほどの情報に囲まれ、何が降ってくるかわからない毎日。避けたくもなるだろう。雨と見せかけ落ちてきた槍には刺されまいと、決まった道ばかりを歩く。あるいは家に閉じこもり、文字どおり安住する。

その生活はすべてがスケジューリングされている。予測性が確保され、僅かな不快すら入り込む余地のない空間。未来を描けていると言えば聞こえはいい。だが歩む道は平坦である。そこに重ねる足取りが楽だと感じるのは、坂道を歩いた経験があるからだ。逆も然りであって、平坦な道から延びる坂道に踏み出す一歩は、ささやかな冒険の始まりを予感させる。

もっと減速してみたい。トップスピードで走ろうとしては、隣に広がる美しい景色どころか、今足を下ろしたそこが坂道であることにも気付けないかもしれないのだ。ゆっくり歩けば見えてくるものがたくさんある。

目的地を定めること。それはきっと生きるために必要なこと。

でも、たどり着けたらそれでいいと思うし、何ならたどり着けなくたっていいと思う。誰もストップウォッチで計ってなんかいないし、地図だって手に取る必要はない。どこに足を踏み出してもいい自由は、偶然に満ちている。ゆくりなき出会いは、わかりやすい日々とは無縁である。

世界はもっと、ランダムにできていたはずなのだ。

知らない道を歩けば五差路にあたり、迷って引き返す途中で見つけた路地は先の見えない上り坂。進んでみれば袋小路でため息つくも、振り返った空の美しさに息を呑む。ぼくらはそういう世界で息をし、空気を感じていた。

閉じこもってばかりの日々を過ごすうち、いつしか偶然はどこかに影を潜めてしまった。足を運ばずして人と会える世界は希望を与えた。でも、ディスプレイに映るのは、いつだって自分が見ようとした世界から流れてきたものでしかない。それが予定された偶然だと知ったときに覚える寂しさは、多分、心からの本音なのだ。

偶然は思いがけずやってくるけど、自分が遠ざかってしまえば姿を見せることもない。それなら歩み寄るしかないだろう。靄のかかる道に、ゆっくりと手探りで踏み入ってみる。その道は本当はすぐ近くにあったのに、見えないふりをしていた。わかりやすいものばかり手に取ろうとしていた。空気抵抗がなければ、速度を緩めることもできないと知っていながら。

靄を前に躊躇う気持ちを誤魔化す必要はない。ただ、それを振り払う勇気がほしかった。予定された偶然の中で拾い上げた小石は、本当の偶然に変わる原石かもしれない。そしてそのきっかけは、ほんの少しの勇気で手元に手繰り寄せることができるものなのかもしれない。

わかりやすさという対極を持つからこそ、わからないことを楽しめる。相対する存在との差異があるから価値が生まれる。頭ではそう理解していても、わからないことに惹かれてしまうのだ。理由は、わからないけれど。

ぼくはもっとわからないを楽しみたい。だから歩調をゆるめて、たとえ靄のかかる道でも進んでみようと思う。平坦な道、上り坂に下り坂。どんな道も、きっと楽しい寄り道になるはずだ。



Photo by David Fartek on Unsplash


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