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2人の母

僕には2人の母がいる。

「生みの母」と
「育ての母」だ。

厳密には生みの母にも育てられた期間はある。

母は、僕が小学5年生の時に
買い物に行くと出かけ
そのまま戻ってこなかった。

当時、泥酔した父は
母に暴力を振るうことがあった。
いわゆるDVである。

耐えられなかった母は
外に彼氏を作り、
人生をやり直すことを決め
家を出た。

翌朝、母が戻らないことを
祖母に告げられた僕は
ボロボロ泣いた。

一方で、母が暴力から
解放されたことに
安堵もしていた。

(どうか、おかあさんが
 しあわせになりますように)

くしゃくしゃの顔で、そう願った。





しばらくして、若い女性が頻繁に
家に来るようになった。

後の「育ての母」である。

第一印象は最悪だった。

リビングで足を組み、
タバコを吸いながら
日中からビールを飲んでいる。

唖然としている僕ら兄弟を見ても
特に話しかけてくることもなかった。

やがてその女性と父は再婚し、
2人目の母となった。

母は不器用な人だったが
たくさんの愛情を注いでくれた。

掃除は苦手だったが、
料理は得意だった。
中でも年越し蕎麦は絶品だった。

母の父は屋台をやっており
うどんや蕎麦はつゆも手作りするほど。
その影響か、得意料理の1つだった。


勉強は苦手だと、宿題を
見てもらった記憶はないが
母親としてのコミュニケーションは
精一杯がんばっていた。

ー学校はどうか、
ー友達はどういう人か、
ー部活は楽しいか、
ー好きな人はいるのか、


色々な話をした。

年は僕の10歳上。

外見や照れもあり、
「おねえちゃん」と
ずっと呼んでいた。

それゆえに、普通の親には
話せないようなことも
話せていたような気もする。



そんな生活が10年程続き、ある日のこと。


母は入院した。


ガンが見つかったらしい。
それもステージはかなり進行していた。


父と母には子どもがいた。
いわゆる腹違いの弟だ。

僕はまだ小さな弟の面倒を見ることが多く
病院へお見舞いに行く機会は少なかった。

ただし、それを理由に
会いに行こうとしていなかった気もする。

病気で苦しんでいる母を見るのが
怖かったから。


当時、ホテルのフロントで働いていた僕に
父から電話がはいった。


「容態が急変した。来れないか?」


夜勤担当だった僕は行くことを躊躇った。

いや、現実を直視することが
イヤだったのかもしれない。

しかし、同僚の後押しもあり
病院に向かった。


病室に着く。

中にはいると、
呼吸器で何とか、生きながらえている
母がそこにいた。



ー頭が回らない。何だこれは。



身近な人の危篤を経験したのはそれが初めてだった。

全く目の前の現実が理解できない。

手を握ってみる。
温かった。


そうしているうちに心肺停止になり、
母は息を引き取った。



僕と母の人生はそこで終わった。




翌日の通夜は慌ただしかったが
一段落したタイミングで
父と久しぶりに少し会話した。



「これからのこと、ゆっくり考えていかないとな」


「うん。僕も夜勤は減らしてもらうようにするよ」


「そうか。それは助かる。本当にすまない」


「うん」


「お前、最後に ”おかあさん” と叫んでいたな。
 俺はなんだかうれしかったよ」


「え……?」




まったく覚えていなかった。

むしろ、最後までそう呼べなかったことを
後悔していた。


(そうか…呼んでいたのか。
 でもまったく覚えていないや)

実家に帰ると、仏壇に手をあわせながら
色々な話をする。

自分のこと
家族のこと
仕事のこと
楽しかったこと
悲しかったこと
悩んでいること

日によって会話の内容はまちまちだが
はじまりの挨拶はいつも

ーおかあさん、ただいま。




家族が全員揃っている
夢を今も見ることがある。

再び、人生を子供時代から
やりなおせるとしても
僕は「育ての母」を選ぶと思う。



別に「生みの母」がキライなわけじゃない。
今でも、会ったり、電話をする。



それでも「育ての母」には
たくさんの愛情を注いでもらったし
もう一度、親子として
色々な話をしたい。



なにより、今度こそ「おかあさん」と呼びたいのだ。

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