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風景にこころ晴れるとき

 景色がこころよいとき、不思議と心が晴れるように思う。こころの曇りがやわらいで、不安がおさまり、落ち着いた気持ちが生まれる。それは澄みきった空に吹かれる雲のひかりでも、柔らかい草のあいだに咲く花の彩りでも、感じることがある。美というのは、心癒すものがあるのだ。

 アリストテレスは、「悲劇とは、哀れみや恐怖をつうじて、そのような感情の清め(カタルシス)を遂げる」と言っている。それは、創作された作品と、それを鑑賞する人が、こころ通わせるときに、鑑賞者のこころが清められる、というほどの意味。

 彼の言う「清め」は、景色についても言えるのだろうか。彼は、悲劇を含めた、創作一般を、「再現」だと考えている。創作は、現実とはことなる空間のなかに、現実からひろってきた要素をつかって、現実にはない世界をつくる。材料を現実からひろいあつめる点で、創作は現実の「再現」と呼べる側面をもっているのだ。

 その「再現世界」は、不思議と、人を癒すものがある。アリストテレスも言うように、現実の場面では、見るのをいやがったり、ためらったりするものが、創作のなかの「再現」としては、鑑賞して快いものになる。この、再現心理ともいえる現象は、おそらく、人の心の深いところに根ざしている。

 というのは、人の心は、世界の現実を、ある程度自分の想像によって加工することで、日常をつくっている。一日をどう過ごそう、と思うときには、可能性をならべて、順序を与え、目的と手段を整理して、それに合わせた気持ちを整え、行動を組み立てる。その一連の作業は、すべて自分の想像によっておこなっている。

 創作は、そのように現実の「加工」(この例では「時」の加工)にいそしんでいる自分の想像心に、行動からの「自由」を与える。つまり、創作を鑑賞するのは、何か具体的な行動のためではなく、単純に、その創作世界を楽しむため。鑑賞をしているあいだ、人の想像心は、行動のための作業からはなれて、自由を手にするのだ。

 その「自由」そのものが、心にはこころよい。心は基本的に、現実において作業することを目的に、人にそなわっている機能だ。しかし現実は、処理に窮する、困難な場面が多く、人の心には、うまく機能できないことによる、想像心のわだかまりが生じる。現実の、成果のための作業から心の機能を外し、思いのままに心をはたらかせることが、人の想像心を、すっきりとさせる。

 つまり、アリストテレスの言う「清め」とは、作品世界という、現実とはことなる空間に心を導くことで、心の機能を、日常の現実と無関係な、精神の純粋においてはたらかせることを、言い表している。日常の感覚を洗い落とし、心本来の機能のみを鮮やかにはたらかせると、その「自由」に、心は晴れて、自分がすっきりする。

 では、景色には、そのような「清め」はあるのだろうか。先の清めは、「再現」としての創作が、現実の要素をつかいつつ、現実とはことなる世界を描く、ということを基本としていた。しかし、創作されたものが何もない、空のひかりや風になびく草は、なぜ心を癒すのか。

 ひとつには、自然の風景を、心の何かに喩えて、自然のながれの中に、比喩的な「創作」をする、という場合がある。本来の創作は、現実から何かをひろって、その材料をつかって、現実にないものをつくる、という再現をおこなっている。それは、現実から心のなかへ、という方向の再現だ。

 だが、心の中から、何らかの要素をひろって、その要素を自然の何かにあてはめ、自然のなかに生まれる「再現」を楽しむ、という場合がある。例えば、小さな花の、澄んだひとみのような青に、幼い子どものよろこぶ様子をかさねて、子どものよろこびという、心のなかの印象が、花に再現されるのを楽しむ、というような場合だ。

 それは、先ほどとは逆に、心の中から現実へ、という再現の方向をもっている。そして、青い野花は、それ自体では子どもと無関係であるため、その「再現」は、子どもの世話をするときの日常の感覚とは無関係に、子どものよろこんでいる様子を心に描き、その点、日常を洗い落とした「清め」を生む。

 アリストテレスの生きた西洋古代には、芸術の美や、心の美といった独立の概念がなく、自然の「美しさ」そのものが、なぜ成り立つのか、彼の言葉からひろいあげることはできない。だが、「清め」というものが、ひとつの「癒し」であるとすると、人が自然に心癒されることも、彼の示唆したところから、一定程度、理解できるのではと思う。

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