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「私にしか出来ない仕事」を欲した私の顛末



会社員時代、私の提案する企画の多くは「それは属人性が高すぎるから……」という理由で度々おじゃんになった。他の社員に引き継げない、中心人物が倒れたら成り立たない、そうした企画は、確かに組織としては強度がもろい。

そうした末に「違う、これからは評価型経済の時代。 属人性こそが価値になる!」と鼻息荒く会社を辞めて、はや6年。その間、私の属人性に付けられた市場価値はにわかには信じられないほど跳ね上がった。2018年頃、評価型経済の始まりだと持て囃されたアプリ「Timebank」では、落合陽一さんや堀江貴文さんという顔ぶれに挟まれて時価総額トップ3圏内に居座っていた。(今はアプリもろとも跡形もなく消えてしまった。栄枯盛衰のPDCAが速すぎやしないか?)

属人性、属人性……。いや、属人性……という言葉では足りないか。私はなんというか、感受性のバケモノのような塊に本能的に惹かれてしまうところがあり、これは一種の病なのかもしれない。


起業家の秋元里奈さんが真っ直ぐな瞳で「努力する人は、夢中な人に勝てない」と語っていたが、私の場合は夢中というより、中毒である。バズも炎上もひっくるめて、生き恥を晒しながらやっていたら、知らんまにエッセイストということになっていた。そうした塊が2月末、税込み1,760円の商品として販売された



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「エッセイを読む時のこの甘美な快感は、他者の心を覗く罪悪感からきている」

アイドルの宮田愛萌さんがそう綴っていたけれど、エッセイは仰るとおり、他人のリアルだからこそ価値がある。メインディッシュは書き手の生き様、そして感情の起伏そのものだ。

嘲笑ってやって欲しいのだが、私はいま、自らの手でこしらえた属人性の檻の中で、ただひたすらに苦しい。私を昆虫に喩えるならば、日々の地味な餌探しに疲れ、強烈な甘い蜜の香りに誘われて入っていったその場所が、ゼリー入の虫籠であった……という具合だろうか。どうやら、食べるものや排泄するものまでひっくるめて、生き様を観察される人生が始まってしまったらしいのだ。


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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。