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青花。枯れることのない青の世界


古代オリエント世界、人々は「青」を永久に手の内に収められないものかと、大変な苦労をしてきたらしい。頭上に広がる空はもちろん手では掴むことができないし、青く目に映る水は手に掬った途端にその色を失い、青い果実や花は人が摘み取ったそばから枯れていく。

だからこそ、ラピスラズリやトルコ石のような青い宝石は重宝されたというけれど──人はその欲の強さで文化を発展させてきたのだ。希少な宝石よりもずっと容易く、もっと思いのままに支配できる青を探した。その先に辿り着いたのが、コバルトを含んだ鉱物を焼いて酸化させ、ガラスに溶かし込むという技法。紀元前2050年頃には既に、コバルトや銅で青く呈色されたガラスが創られていたのだというから驚かされる。

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そこから4,000年以上の歳月が流れた今日、青を手の内に収めることは随分と容易くなった。手のひらサイズの青いものは、もはや希少価値は高くない。けれども私は、美しい青を見ればそれを自分のものにしたい──という欲が沸き、気づけば食器棚の中は青ばかりが増えてしまった。

青の模様と、白の余白が生み出す凛とした美しさ。日本ではこうしたやきものは藍染にならって「染付」と呼ばれるけれど、私は「青花」という中国の呼び名が好きだ。暮らしの中に咲く、枯れることのない青い花。

こちらは、江戸時代後期の手塩皿。軽やかな絵付けに、金継ぎされた線が涼しげである。


昨年の梅雨の時期に熱海の骨董品屋で購入したものなのだけれど、最近になって依頼主である古物商と金継ぎ職人のやり取りをInstagramで発見した。各々がこの小さな器に真摯な思いを注いできたという日々の片鱗に触れると、愛着もいっそう深くなるもの。

ただこの器は、これだけで既に完成された美しさがあるので、日常使いするには少々難易度が高い。故に活躍するのは塩を盛ったり、ミントを少し盛り付けたり……といった限定的な場面ではあるけれど、手に取り眺めるだけでもうっとりとする、申し分ない存在だ。

こちらは現代に生きる、安齋新さん、厚子さんご夫妻が作られたマグカップ。鎌倉の夏椿というお店で2つ購入した。絵付けや素材は東洋的でありながらも、形状は西洋的。そうした姿形をしているからか、コーヒー、紅茶、茉莉花茶、焙じ茶、ホットミルク……なにを注いでも馴染んでくれる。あまりにも使い勝手が良いので、これはすっかり一番の愛用品になってしまった。

少し生成りがかった素地に、さりげなく描かれた青い花は、どこか李朝時代の青花……日本では「秋草手」と呼ばれている器を彷彿とさせるところもある。絵付けがされた李朝の壺を前にして「中国の壺のように尊大なところがなく、日本の壺のように神経質なところがない」と崔淳雨という人が言ったらしいけれど、確かに尊大でも神経質でもないものは、日常に溶け込みやすい。

こちらも素朴な……たぶん江戸後期の茶碗。護国寺骨董市でお喋り上手な古物商のお兄さんからそうした説明を受けた記憶がある。

子ども用の小さな茶碗ではあれど、私はあまりたくさんの米を食べないので、この手のひらサイズがちょうどいい。そしてこれを買った護国寺骨董市も、規模が大きすぎず、観光客だらけで大混雑ということもなく、私にとってちょうどいい規模感の骨董市。

次の開催は10月12日なのだけれど、この日朝から骨董市に行き、有楽町線で移動して、飯田橋で古琴の演奏会に行く……というのは良い休日になるのではないでしょうか!

こちらは有田で作陶されているたなかふみえさんによる蓋碗。梅と燕の絵付けや銀色のあしらいは現代的で、もしこれが他の色であればポップに傾きすぎるかもしれないけれど、青と白だからこそ普遍的な魅力がある。

ちなみにこれは、夫がふるさと納税返礼品としてゲットしたもの。数多ある返礼品の中からこれをチョイスするというのは、なかなかセンスの良い男ではないか。

華やかなので、西洋的なものがよく似合う。蓋は小皿としてキャロットラペやオリーブなんかを盛り付けたり、椀にはヨーグルトとフルーツを盛り付けたり。

こちらも極めて西洋的な存在である、エッグスタンド。「ゆで卵を固定する」という目的のみに特化した汎用性の低い器だが、1年前に我が家にやって来てからというもの、使用頻度は非常に高い。

そもそも、エッグスタンドなんてほぼ使ったことないよ……という人生だったのだが、昨年の梅雨にAllaとVitがうちに泊まっていたとき、食器棚にあったお猪口をエッグスタンド代わりに見立てて毎朝ゆで卵を食べていたのに「これは!」と小規模な感銘を受けたのだ。

ご覧いただけるだろうか、お猪口に沈んでいるゆで卵を

スプーンでカツカツ……と卵の頭を割って、塩をひとつまみそこに入れ、掘りながら食べる。この食べ方は、なるほど非常に合理的なのである。

ゆで卵というのは、茹でるのは容易いが、皮を剥くのが少々面倒くさい。しかしこれだと剥く工程は発生しないし、卵が半熟でも難なく食べられる。机の上に殻は散らばるけれど、まぁ食後にざっと拭けば良い。

私はすっかりこの食べ方が気に入って、Allaたちが去った後にメルカリでちゃんとしたエッグスタンドを購入。私が買ったのはNIKKOの古いもので、似たようなものはメルカリでまだ残っておりますよ。


ちなみにメルカリでの買い物は「想像以上!」ということもあれば、「あぁ安っぽい……いや事実、安いんだけど……」ということもある。お値段以上の買い物だったのが、こちらの長皿。お値段、2枚で1,700円。

魚はもちろん、ズッキーニやトウモロコシのような縦に長いものはなんでもこのお皿に乗せておけば良い感じに収まってくれる。食卓がぱっと華やぐので重宝しているし、薄いので食器棚でも場所をとらない。まだ同じものが売られていたので買い足そうかな……という程には重宝している。

同じく重宝しているのが、メルカリで見つけたこれらの大皿。届いたものを見たときは「いや、でかすぎるな?」と思ったのだけれど、

わさっ! と盛り付けると、春菊の炒め物であれメインディッシュに格上してしまうだけの器力(うつわぢから)があるのだ。これだけ大きな皿が食卓にあると、気分も豪快になって楽しい。最近は夫がずっと出張ゆえにひとり飯なので、出番が減ってしまったが……。

一方、「クオリティが……」と残念に思ったのは、こちらのカップ&ソーサーたち。

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