見出し画像

信頼がイノベーションを加速する|論文紹介「Social Trust and Firm Innovation」

こんにちは!シンギュレイトnote編集部です。

第3回の論文紹介です。今回の論文は、「信頼」が企業のイノベーション創出にどのような影響を及ぼしているかを調査した論文です。調査の結果、明らかになったのは、信頼がイノベーションにいくつかのポジティブな効果を与えることが明らかとなりました。

それでは早速、その具体的な効果を紹介していきましょう。

紹介論文
Social Trust and Firm Innovation Sadok El Ghoul,Zhaoran (Jason) Gong,Omrane Guedhami,Fangfang Hou,Wilson H.S. Tong

植野剛 株式会社シンギュレイト サイエンスチーム 責任者京都大学大学院にて情報学の博士号を取得。 専門はAI・機械学習。科学技術振興機構、東京大学、理化学研究所での研究員を経て、金融系スタートアップにてCROを務める。2023年4月にシンギュレイトに参画。シンギュレイトの研究開発を一手に担う。
論文紹介者:植野剛,博士(情報学)

ここがわかれば9割OK!(論文でわかること)

  1. 社会的信頼は企業のイノベーションを促進する

    1. 社会的信頼とは「見知らぬ人、他者一般に対する信頼」であり、一般的信頼ともよばれる

    2. 社会的信頼の高い国では、企業の特許数、ならびに特許の被引用数が多い

    3. 社会的信頼が10%上昇すると、特許数は12.9%、被引用数は11.9%増加する

  2. 社会的信頼は研究開発への投資——R&D投資——を活発化、安定化させる

    1. 社会的信頼が高いほど、R&D投資額が大きい

    2. 社会的信頼が高いほど、R&D投資額の経年変化は小さい

    3. 社会的信頼が高いほど、R&D投資の内部キャッシュ・フローへの依存度が小さい

  3. 社会的信頼はR&D投資の効率を高める

    1. 社会的信頼の高い国では、企業のR&D投資に対する株式市場の評価が高い

    2. 社会的信頼の高い国では、企業のR&D投資が将来の売上増加に結びつきやすい

1. 背景と目的

イノベーションは経済成長の原動力であり、企業の持続的発展に不可欠です。これまで、法律や金融システムなどの公的な社会制度が企業のイノベーションに及ぼす影響については、広範な研究が行われてきました。しかしながら、長期的に社会で醸成された慣習や価値観がイノベーションに与える影響については、十分な検討がなされていません。

本稿で紹介する研究は、社会的信頼——見知らぬ人や一般的な他者に対して抱く信頼(一般的信頼ともよばれる)が、企業のイノベーションに及ぼす影響を調査したものです。社会的信頼とイノベーションの関係は、これまで相反する2つの見解が提唱されてきました。

第一の見解は、「社会的信頼がイノベーションを促進する」というものです。この立場によれば、社会的信頼は以下の効果をもたらすとされています:

  1. 新しいアイデアの創出を奨励する社内文化の醸成 (Dovey, 2009)

  2. 資本提供者の失敗に対する寛容度の向上 (Tian & Wang, 2014)

  3. 様々なステークホルダーとの協業促進による取引コストの低減と知識移転の活性化 (Ruppe & Harrington, 2000)

対照的に、第二の見解は、「社会的信頼がイノベーションを阻害する可能性」を指摘しています。この立場は次の点を懸念しています:

  1. 監視の欠如や情報収集の動機付け低下による潜在的な損失 (Pagden, 1988)

  2. 相互監督への投資不足による経営的・革新的取り組みの減少 (Xie, Zhang, & Zhang, 2022) 

  3. 内部グループへの過度の依存がもたらす外部知識資源へのアクセス制限 (Molina-Morales & Martínez-Fernández, 2009)

このように、社会的信頼がイノベーションに及ぼす影響は未だ解明されておらず、実証的検証が必要とされています。本研究では、この課題に取り組むべく、社会的信頼と以下の3要素との関連性について統計分析を実施しました:

  1. イノベーションの成果(特許数と特許の被引用数で測定)

  2. イノベーションへの投資(R&D投資額で評価)

  3. イノベーション投資の効率性 (トービンのQと売上成長率で評価)

これらの分析をとおして、社会的信頼とイノベーションの関係性に新たな洞察を提供し、この重要かつ複雑な問題の理解を深めることを目指しています。

2. データ

本論文では、社会的信頼と企業レベルのイノベーションの関係を世界規模で分析するため、次の3つのデータセットを組み合わせた大規模なパネルデータを構築しています。

[データ1] World Values Survey (WVS)

  1. 世界の90%以上の人口をカバーする100カ国以上で実施される大規模な社会調査。信頼を含む価値観、信念、態度などに関する包括的なデータを提供。

  2. 1995年から2015年までの4回分の調査結果を使用(第3波:1994-1998年、第4波:1999-2004年、第5波:2005-2009年、第6波:2010-2014年。2015年は第6波のデータを使用)

  3. 信頼に関する質問:原文 "Generally speaking, would you say that most people can be trusted or that you cannot be too careful in dealing with people?"(日本語訳:「一般的に言って、ほとんどの人は信頼できると思いますか、それとも人と付き合うときにはよく注意した方がよいと思いますか?」)回答は二択で、信頼できると答えた場合を1、そうでない場合を0としてバイナリーで表現。

  4. 各国・各調査波の平均信頼スコアを算出し、 各国の社会的信頼の値として使用。

[データ2] Worldwide Patent Statistical Database (PATSTAT)

  1. 欧州特許庁(EPO)が管理する世界規模の特許データベース。米国特許商標庁(USPTO)データを含む世界中の特許庁に出願された特許の80%以上をカバー。

  2. 1995年から2015年までのデータを使用。

  3. 特許出願数、特許の前方引用数——後の特許にどれだけ引用されたか——を収集。特許の引用数が多いほど重要な発明とみなされる。

[データ3] Compustat Global and Compustat North America

  1. 世界中の上場企業の詳細な財務情報を提供するデータベース。

  2. 1995年から2015年までの企業財務データを使用。

  3. PATSTATとの名前マッチングに加え、ウェブURLマッチング手法を使用して企業と特許データを紐付け。

これら3つのデータセットの組み合わせにより、43カ国の20,923社について、188,251の企業年観測値を持つ包括的なパネルデータが構築されています。

3. 結果

3.1.社会的信頼とイノベーションの成果との関係

社会的信頼とイノベーションの成果との関係を分析するため、回帰分析を実施しました。図1と2は、それぞれ社会的信頼と特許出願数、社会的信頼と特許の前方引用数の分析結果を示しています。図の横軸は社会的信頼、縦軸は特許出願数、特許前方引用数のそれぞれの対数値となっています。定量的分析の結果、社会的信頼が10%上昇すると、特許出願数は12.9%、特許の前方引用数は11.9%増加することが明らかになりました。この関係性は、企業レベルの要因——企業規模やR&D投資など——、国レベルの要因——特許保護制度、経済発展度や教育水準など——をコントロールしても一貫して観察されました。

特に注目すべき点は、社会的信頼が「真のイノベーション」——前方引用があるより重要度の高い発明と強く関連していることです。特許を被引用あり・なしで分類して分析したところ、社会的信頼は被引用のある特許数と強い正の関係を示しましたが、被引用のない特許との関連は見られませんでした。これは、社会的信頼がより影響力の大きなイノベーションを促進していることを示しています。

図1. 社会的信頼と特許出願数の分析結果
図2. 社会的信頼と特許の前方引用数の分析結果

3.2.社会的信頼とイノベーション投資の関係

社会的信頼とイノベーション投資の関係を調査するため、3つの観点から分析を行いました。

まず最初に、社会的信頼とR&D投資額の関係について回帰分析を実施しました。その結果、社会的信頼の標準偏差1単位の上昇——社会的信頼の0.12ポイントの上昇——が、総資産に占めるR&D投資比率を0.66%ポイント上昇させることがわかりました。これは、サンプル全体のR&D投資比率の平均値6%(米国で10%、日本で2%)と比較すると、かなり大きな効果といえます。

次に、社会的信頼とR&D投資の安定性の関係を調べました。分析の結果、社会的信頼の標準偏差1単位の上昇が、R&D投資の変動性を約20%低下させることが明らかになりました。これは、社会的信頼が高い環境では、企業がより長期的な視点でイノベーションに投資できることを示唆しています。

最後に、社会的信頼がR&D投資の資金調達に与える影響を分析しました。具体的には、R&D投資が企業のキャッシュ・フローにどの程度依存しているかを調査しました。通常、R&D投資は不確実性が高いため、外部からの資金調達が難しく、内部資金に依存しがちです。しかし、分析の結果、社会的信頼の標準偏差1単位の上昇が、R&D投資の内部資金への依存度を約25%低下させることがわかりました。

これは、社会的信頼が高い環境では、企業が外部から資金を調達しやすくなり、内部資金の制約を受けにくくなることを示しています。言い換えれば、社会的信頼が高い社会では、企業は自社の現金状況に左右されることなく、より柔軟にR&D投資を行えるようになると言えます。

3.3.社会的信頼とイノベーション投資効率の関係

社会的信頼がイノベーション投資の効率性に与える影響を、R&D投資の市場評価と経済的成果という2つの観点から分析しました。

まず、社会的信頼とR&D投資の市場評価との関係を調べました。具体的には、社会的信頼と企業価値をトービンのQ——企業の市場価値を簿価で割った値——について回帰分析を実施しました。分析の結果、社会的信頼の標準偏差1単位の上昇が、R&D投資とトービンのQの正の関連性を約32%増加させることが分かりました。これは、社会的信頼が高い環境では、投資家がR&D投資をより好意的に評価し、それが企業価値の向上により強くつながることを示唆しています。

次に、社会的信頼とR&D投資の実際の経済的成果——将来の売上成長率——との関係を分析しました。定量分析の結果、社会的信頼の標準偏差1単位の上昇が、R&D投資と将来の売上成長率の正の関連性を約50%増加させることが明らかになりました。これは、高信頼社会では企業がR&D投資をより効果的に商業的成功に結びつけられることを示しています。つまり、社会的信頼が高い環境では、R&D投資がより確実に売上増加につながると言えます。

4. 考察とインサイト

本研究の結果は、社会的信頼が企業のイノベーションに多面的かつ重要な影響を与えていることを示唆しています。社会的信頼は単にイノベーションの生産性を向上させるだけでなく、企業の長期的なイノベーション戦略を支援し、さらに市場がそのような戦略を評価・支持するという好循環を生み出していると解釈できます。

この好循環は、イノベーションの成功につながりやすい環境を醸成していると考えられるでしょう。これらの知見は、イノベーション政策を考える上で重要な示唆を提供しています。従来の研究開発税制や補助金といった直接的な政策に加えて、社会的信頼を醸成する政策がイノベーションを促進する上で重要である可能性があります。例えば、透明性の向上、公正な競争環境の整備、教育を通じた社会的規範の強化といった政策です。

一方で、過度の信頼がイノベーションを阻害する可能性も指摘は無視するべきではなく、この点についての実証的な検証も重要な課題です。例えば、過度の信頼は批判的思考や健全な競争を抑制し、結果としてイノベーションの質を低下させる可能性があります。したがって、適切な信頼水準の検討は、今後の信頼研究で重要なテーマとなるでしょう。

本研究では国レベルの信頼に焦点を当てましたが、企業の組織文化としての信頼も、同様にイノベーションによい影響を与える可能性があります。組織内の信頼関係が、リスクテイキングや創造的な協働を促進し、結果としてイノベーションを加速させる可能性は十分に考えられます。この観点からの研究は、今後組織イノベーションの分野で重要になってくると考えられます。

信頼をめぐる研究はまだ多くの未開拓領域が残されており、今後さまざまな視点からの研究が必要です。本研究の知見を起点として、社会的信頼とイノベーションの関係についての理解をさらに深めていくことが、イノベーション政策の立案や企業のイノベーション戦略の策定において重要となるでしょう。


最後まで、お読みいただきありがとうございました。今後も、信頼や傾聴、組織開発にかかわる論文を紹介していきます。もし今回のnoteが、「参考になった」「面白かった!」と思った方は、ぜひ記事への『スキ』とフォローをお願いします!