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レナード・コーエン展に行く

雪解けが始まった頃に見るオンタリオ美術館は、まるで巨大なスノードームだ。春休みを間近に控え、館内は元気いっぱいの子供たちで溢れている。塗り絵を提供しているロビーに着くと、小さな巨匠たちがコンクリートの床に寝転んだまま、自在にクレヨンを操っている最中だった。あっちやこっちへ、着地点を知らないカラフルな線が白紙を覆い尽くしていく。

人気を博しているレナード・コーエン展「Everybody Knows」の入口には、看板の代わりにコーエンのトレードマークであったフェドーラ帽子が掲げられていた。帽子の下をくぐると、神々しいスポットライトを浴びたコーエンの後ろ姿が出迎えてくれる。

魂に囁きかけるようなコーエンの楽曲は、これまで数多くの映画に使用されてきた。有名なものではロバート・アルトマンの『ギャンブラー』などが挙げられるが、私にとってはサラ・ポーリー監督作『テイク・ディス・ワルツ』が印象に残っている。
二人の男性の間で揺れていた主人公が苦渋の決断をしたあと、コーエンの同名曲が流れてくる場面がお気に入りだ。カメラが同じ場所でグルグルと回り続ける間、画面中央で愛し合う二人の心だけが刻々と変化していく。切なくも可笑しくもある描写は、さながら人間の尊厳と軽薄さを一つの歌に閉じ込めてしまう、コーエンそのもののようだった。人も愛も、日々を重ねていくうちに古くなってしまう。そんな一抹の寂しさを描き出すロマンス映画だ。それに、いつもは都会的で無機質に見えるトロントの情景をひどく感傷的に映し出した、なんとも色彩豊かな映画でもあった。

名曲「ハレルヤ」が流れる展示室に立っていると、足元に幼い兄弟がやってきた。それぞれ父親の膝にちょこんと乗り、まだ不安定に揺れる頭をもたげて大きな画面を見つめている。つられて私もしゃがみ込み、二人と視線を合わせてみた。大人たちの隙間から、フェドーラ帽子の先が左右に揺れているところが見える。間奏に入ったころ、弟の方が大きな声を出しながら長い長い欠伸をした。父親が思わず苦笑を漏らしたが、暗い部屋の中で聴くコーエンの歌声は心地が良くて、私は無理もないと思った。

詩人には、傲慢さと未熟さが必要である、そうコーエンは言っていた。愛や女性のことなどまだ知らない子供の頃に夢中で書いた詩が自分の最高傑作であり、その後は下り坂しかなかった、と。足元に座る小さな兄弟と、画面に映った晩年のコーエン。私はその中間辺りに存在している傲慢な未熟者であるが、それなら私にも詩的な魅力はあるのだろうかと、ふと考えた。あったとしても、今の私には理解しえない部分なのだろう。様々な経験を積み、不満や後悔と共に振り返ったときに見えてくるのが、おそらく本当の自分なのだ。

「人生にはヒビがたくさんあるものだけど、それを躍起になって塞ぐ必要はないじゃない」

『テイク・ディス・ワルツ』に出てくる好きな台詞なのだが、美術館を出ようとしたときに見つけた写真の中で、その意味を再確認することになった。若くて端正なコーエンの顔を覆うように、「アンセム」の歌詞が書き残してある。

この世の全てに亀裂はある、そこから光が入ってこられるように。