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SNS から私を解き放つ

数年前にヴィパッサナー瞑想に参加したときのこと。
会話も携帯も読書もメモもなし。一切の情報から距離を置き、ひたすらに瞑想する10日間。
無事にコースを終えた最終日、解禁された会話を参加者の人たちと楽しみつつ、預けていた荷物を受け取る。

長らく眠っていたスマートフォンの電源を入れ、画面をのぞきこんだ瞬間
ブルーライトのあまりの眩しさに耐えられず、私は思わず「痛っ!」と目を閉じてしまった。
慌てて顔を上げると近くにいた参加者たちも同様、画面を直視できずに悶絶していた。

数時間後には手元の人工的な明るさにも慣れ、「目が退化したね〜。」と笑って終わったのだけれど、
私の「身体」にとって携帯は当たり前の存在ではないことを実感し、
ヴィパッサナーと聞くたび、瞑想体験以上にあの時の衝撃を思い出す。

話は変わって、冬ごもりを始めて数週間。
習慣になっていた SNS の閲覧をお休みしている。
「見ない」と決めるだけで、見えない鎖から解かれたかのように気持ちがラクなことに驚く。
私の「心」にとって SNS は当たり前の存在ではないのかもしれない。

思えばスマホもSNSも今ほど普及していなかった学生時代は、その時手に入る情報だけで充分だった。
仲の良い友達とは直接会ってお喋りしたし、
遠方の友人とは手紙のやり取りや、年に数回でも会った時にたっぷり近況報告できればそれで満足だった。

それが年々SNS が日課になり、
欠かさずチェックしないと置いてきぼりになるような、
”友達” ならいいね!しなきゃいけないような、
自分をアピールしないとつまらない人間だと思われるような、
そんな風にだんだんと自分の「心」まで持っていかれるようになった。

友人の近況を知れることも、
好きなお店の情報を得られることも、
自分の表現を見てもらえることも嬉しい。

けれども「見ない」ことを当たり前にしてみると、何でもかんでも情報を追わなくとも、必要以上に自分を主張しなくとも、必要な時に必要な分だけ授受できればそれで充分と思えてくる。

携帯ニュースを解約して1年、テレビのない生活を続けて17年。
元来アナログな生活が性に合っている私は、インターネットや情報から少し距離があるくらいの方が、自分自身を心地良く保っていられる。
そして旧友とのマイペースな繋がりのように、目に見える世界に「心」で繋がっている実感を持てる人たちがいる方が安心する。


最近、私の note をきっかけに昔のヴィパッサナー仲間と再び交流するようになった。
SNSだけの繋がりから、電話やメールのやり取りをするようになり、現在は本の制作を一緒にする話が進んでいる。
いいね!の世界をプラットホームに、リアルの世界へと一歩。SNSの本当の醍醐味はそこにあるのかもしれない。

「会えない時間や自分ひとりの時間を持つことで、人間の幅って広がる気がする。」SNSを全く使わない世界で暮らしている友人が言っていた。それぞれの心地良い距離感があっていい。

アナログ世界のほんのスパイス。
私はそんな付き合い方ができたらいいかなと思う。

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Photo @八ヶ岳、山梨

あらゆる年代の人たちがゆるゆる集った年の瀬の餅つき。「見る」よりも「体験」する方が何倍も楽しい。

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