『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』 レビュー 絵画・写真・映画 中間のスペース

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』を観ました。1月に観たので、時間が経ってからの投稿です。

監督は『臨死』(1989)『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』(2011)のフレデリック・ワイズマン。

映画を観るということは、観た瞬間から忘れていくような体験であると思います。

以下、何となく、ですます調をやめます 笑。


◆広がる視点

学芸員と絵を鑑賞している女性がいるシーンがある。学芸員は女性に絵の説明をしている。まず、それぞれの人間を個別のショットで映す。説明を聞いている女性のショットと、説明している学芸員のショットの後、女性が説明を受けて納得し頷く。そのショットでは女性と学芸員が同一の画面に収められているが、学芸員にフォーカスが合わされ、女性にはフォーカスは合っていない。

そのあと、シーンが変わり、ディープフォーカスで、女性のヌードデッサンをしている人々が映し出される。

さらに映されるものは、ナショナル・ギャラリーとトラファルガー広場前の夜景であり、行き交う車である。

美術館内部における光景を切り取られたシーンから、徐々に広がりを見せていく編集が心地良い。


◆場所について

本作は美術館という場を巡る映画である。ワイズマンの映画の常で、公共的な要素を持つ施設を経営する側と、そこを訪れる側、及び施設の外の風景の3つから構成される。

映画は、施設の外景を変化させ、単純な言葉では表現することができない領域に足を踏み入れる。前段落に挙げたような編集は、映画に対する如何なる言葉の説明を拒むのである。


◆鑑賞すること

ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ティツィアーノなど、多くの絵画が登場するうちに、フランスの映画評論家アンドレ・バザンの『映画とは何か』での論を想起した。絵画、写真、映画の関係である。

ワイズマンの映画では施設の外側・内側が映されるが、私はそのどちらでもない、いわば中間のスペースが重要であると考える。『DV』(2001)では、ドメスティック・バイオレンス被害者の保護施設を扱うが、DVの現場のシーンで映画は幕を閉じる。それは施設の外からの光景でも内からの光景でもない、しかし両者を結びつける接点であり、問題の核心が提示される場である。あるいは『臨死』での、映画を構成する主要な要素の医者・患者・患者の家族ではない、遺体をストレッチャーで移送する職員を捉えたロングテイクがある。彼は医師・患者・患者の家族の間をすり抜けていく。タイトルが示すように、映画は人間の死の直前に関わる人々を捉えるが、行き着く先は、ストレッチャーで運ばれる、「死」なのだ。

そして、ここでは、以上のような中間の重要性を絵画・写真・映画の関係に当てはめたい。その理由は本作で絵画を扱うからであり、3つの「中間」に位置する写真の誕生の重要性は、歴史的に証明されているからである。

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』の中で、絵画の展示位置についての議論がある。絵画の中の光に焦点を当て、絵はそれが描かれた当時の場所の光と同じ方向から光が当たる位置に置き鑑賞されることが望ましい、というものだ。絵画の中の光と、描かれた環境を一致させることで最も鑑賞に相応しい状況を作り出すのである。絵画が時代を経て、どのように鑑賞されるのか、最も相応しい状況で鑑賞されるのか? それは見せる側=美術館にかかっている。本作の「中間」のスペースにあたるシーンは、美術館の表向きの構成要素である絵画・来館者ではなく、以上のような学芸員の会話、経営会議、広報、ギャラリートークや修復部門など美術館のスタッフを追ったシーンであり、映画はそれらから構成されている。

本作では来館者は映るが、鑑賞している姿のみであり、彼らの言葉は語られない。膨大な鑑賞者を捉えるのみである。

我々が絵画を時間をかけて鑑賞することは可能だ。写真も同様である。両者の違いは、リアリズムの在り方だ。写真のリアリズムは絵画の方法論を破壊し進歩させた(現実の引き写しとして、その見た目は、絵画より「リアル」である、というものだ)。

では、映画は何を進歩させたのか?それは絵画・写真とは異なる、我々の現実についての認識である。

写真・絵画・映画のうち、映画は私たちが生きている時間と並行して存在し、観ているうちから忘れ去られていくものだ。バザンの言葉を借りれば絵画の時間は垂直に、奥に向かって伸びていくが(本作では絵画の「物語」を語る言葉と、顕微鏡で絵画の層を分析する「シーン」がある。この2つは並列されており、同一のものとして考えることができる)、映画は水平に進む時間を再構成する。『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』を鑑賞した後、全シーン・全ショットの構成を思い出せる人間は皆無だろう。

ドイツの哲学者G・E・レッシングの芸術論によれば、芸術家の才能は最高の瞬間を知覚することである。写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集『決定的瞬間』など、絵画と写真は鑑賞する側にとって、瞬間を永遠に見つめることが可能になる装置なのだ。しかし、映画を芸術であると仮定し(フランスでは第七芸術だ)絵画・写真と比較すれば、映画を鑑賞するには、常に流れゆく時間に身を乗せ、忘れ去られていくことと対峙しなければならない。ワイズマンは編集作業を「モザイク化」と言う。本作では170時間の映像が編集によって3時間に纏められている。ありのまま収められた現実をシャッフルし繋げることにより、現実を変容させ観客の知覚に訴えかける「リアリズム」を作り出すものが映画である。架空の時系列や連鎖を生み出すことによって、達成されるのである。

絵画の額縁も、現実と絵画の中の世界を分かつ境界として、映画のスクリーンとは全く異なった機能を持つ。本作の中で、金箔を額縁に貼り付ける作業が映されるシーンがある。


◆人間の肉体

本作は、絵画について、絵画の物語、修復、照明の順に、それぞれを語る人々を映し出していく。その後、再び物語、修復について語る人々を捉える。


ラストは振付家ウェイン・マクレガーが、ティツィアーノ展から創作したバレエのシーンであり、『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』において、唯一、音楽が流れるシーンだ。そして、体と衣装がすれる音が聞こえてくる。ワイズマンは異なる芸術形式の相互関係に興味をひかれたという。人間の肉体を見つめることは、『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』(1995)『パリ・オペラ座のすべて』(2009)『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』など近年の幾つかのワイズマンの映画に共通する要素だが、本作に限らず、場所とそこに生きる人間の姿が交差する時間を捉えることに、彼の関心があるのかもしれない。


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