バイオリンの形の輪郭と、CwC8の開催について

内側にそれが切り離されたときの空洞があり、輪郭だけを見ることができる。
ともするとそれは、バイオリンの形をしているかもしれない。(『たくさんの喪失について』朗読テキストより)

代表の丹です。今回の公演ですが、結論から言うと開催することに決めました。

観覧いただくお客様に伝えたいことをいくつか書きます。かなり長いですがお付き合いください。また、詳細な感染症対策などは制作から追って連絡します。

舞台は観客との信頼関係によって成り立つものである

当たり前ですが、公演中に何か物理的な事故があり観客が怪我などの損失を負った場合、その責任は主宰にあります。観客がその時・そこにいる理由を作ったのは主宰だからです。

劇場公演とは、その主宰をはじめとするホスト側が完全にコントロールする(すべき)空間に、観客を拘束するというおこないに他なりません。

見知った友人の家ならともかく、完全に他人たりえる関係性の中で、しかも別に家でもなんでもなく、「演出の都合上」により不自然な運用をされている空間に拘束する行為です(しかも、中がどうなっているか、適切にリスクを最小化する運営がなされているかについて、観客は事前にすべてを知ることができない)。

観客はある意味で、そこにいる間の自らの財産と健康を、主宰をはじめとするホスト側に預けているわけです。

観客は作品を観たいという欲求を満たすために劇場を訪れますが、しかし同時に自分でコントロールできない空間に拘束されるということについてはしぶしぶ目をつぶっているというのが正しい状況でしょう。それは私たちホスト側からみれば「信頼関係によってゆるされている」という状態といえます。当然ですが100%安全な空間で、同じ体験ができるのであればそちらを選ぶでしょう。

したがって、「芸術は不要不急ではない」などのステートメントを出して、自分たちのエゴで公演を決行するのは自由です。しかし、観客を拘束する立場にある以上、「自己責任」では突き放しきれない不均衡が「見る <=> 拘束する」 という関係にはあります。とにかく来い、と言うことが果たして倫理的か、という問題は残ります。

「劇場は安全である」という観客=ホスト間の信頼関係は、上演を成立させる共同幻想のようなものです。それを裏切ることはCwCというカンパニーのポリシーの問題ではなく、舞台芸術というアートフォーム全体と社会の関わりというところを、土足で踏み荒らす行為となりえます。

――以上は単に現状の整理です。私の意見を表明したものではありませんが、現状としてそういったことは言える状況であると考えています。

チケットが笑ってしまうぐらい売れない

CwCは同規模のインディーズの公演団体と比較すると少し特殊な運営をしており、いわゆる「手売り」にあまり頼らないチケット販売をしています。

通常のSNS運用をしていれば、だいたい100枚ぐらいは自然と売れるようになっています。

今回はビッグネームが出演し、CwC史上最高傑作と言われる「たくさんの喪失について」の再演をおこないます。

しかし、現時点でのチケット販売枚数はキャパシティ上限である200枚の5分の1にも満たないものになっています。

本来は何もしなくても売れるはずの分すら売れていないため、各自の頑張りが足りていないというよりは、まさに世相を映した観客のみなさんの正直な反応だと理解しています。

つまり、上述の「信頼関係」を築ける状態ではない、ということを、嫌みなくみなさんが素直に感じているのでしょう。

生で観ることに価値がある作品だと思う

先日、新作・再演をつなげての通し稽古をおこないました。内容としては非常によく、また作品の性質上生で観ることに価値があると感じました。

その中で、チケットが全く売れないという状況があって、正直「もっと安全に、胸を張って全員来い!といえる状況で、満席で観てもらいたい」という考えから、延期するというのはかなり理想的な道のように思えたのです。

「信頼関係」から「共犯関係」へ

以上まとめると、延期するのが妥当のように思えます。

にもかかわらず、私の結論は「やる」でした。

今回は、先述した「信頼関係」を、あえて変質させようと思っています。

「信頼関係」とは、ある意味で観客側の責任の放棄ともいうことができます。通常、観客は「お客様」であり、対価を払うことでその場に(限りなく)ノーリスクでいることができ、作品を一方的に享受できる存在です。

ただ本公演においては、明確に、観客は「共犯関係」の中で、同じ方向を向いてCwC第8回公演という伝説を作ってもらいたい、と考えています。

上述した通り、「信頼関係」に則って、他人たるお客様に来ていただく、という門を広く開けることはこちら側の無責任であると考えます。要は、大丈夫だからみんな来てね、とうそをついてリスクを負わせるというのは不誠実であるということです。

対して、自己責任でよろしく、と突き放すのも、こちら側は信頼関係のフレームワークに乗りながら義務を放棄しているというだけの開き直りであり、それもまた不誠実です。

今回はそのどちらでもなく、「覚悟を決めて、全力で協力してほしい」とお願いしたいです。具体的な協力の方法は、追って制作から表明しますが、単に責任の放棄を「共犯関係」と言い換えるだけの対応にはしないと約束します。

先に断っておくと、これは予約・来場いただくお客様にそれなりの覚悟と負担を強いる決断です。

そこまでして観たいとは思わない、という方も多くいらっしゃると思います。そういった方々は、今回は無理せずいきましょう。

伝説

さて、今回の公演は「伝説の回」になると確信しています。なぜか。全くチケットが売れていないからです。

「共犯関係」というコンセプトで行く以上、不特定多数にチケットを売りつけるという行為はしないつもりです(個人での営業行為も制限を設けるつもりです)。そこには責任を負いきれません。

その代わり、その共犯関係の中で今回の作品(かなり良い)を生で観る、という行為は、単なる観劇行為を超えた何かになるであろうと思います。

このコロナ状況下において触れる機会が少なくなった、生身の人間のうつくしさを強く示す作品群であり、おそらく目撃者の心を強く打つものだという確信があります。むしろ作品の質についてはCwC史上もっとも良いので、そこには全く不安はありません。

「親密さ」という映画があります。ソフト化されておらず(今はしているのだろうか?)、上映会が開催されたときにしか観ることができないが、非常に素晴らしい映画でこれに人生を変えられたという人が何人もいます。

「親密さ」という映画は、それ自体だけではなくそれを取り巻く言説も独特の雰囲気を帯びていて、ある種伝説としてたのしまれているように思います。

今回のCwCの公演も、願わくば、限られた人数の、覚悟を持った・共犯者としてのファン(と呼ばせてもらいます、傲慢にも)によってのみ目撃され、それ自体だけではなくそれを取り巻く言説=伝説がさらに広い方々にたのしまれる、といった現象になってくれはしないか、と期待しています。

冒頭でも引用しましたが、失われた部分であっても、その輪郭によって形がわかるように、広い観客によって観劇されなくても、それがたのしまれることは可能であろうと思います。

その物語(文字通りの)のためのツールとして、今回も写真家・コムラマイさんによる記録写真や、focusの関矢さんによる映像、当然ですが「たくさんの喪失について」のポエトリーリーディング全編などのコンテンツを提供します。映像単体での配信や販売は今は考えていません――だって、伝説なので!

「伝説」を楽しんでほしい

まとめると、

・チケットが売れていないが、公演は実施する
・この売れていないままやるつもりだ
・みんなどしどし来て、とは言わない。覚悟を持って共犯者になってほしい
・直接目撃しなくても、CwC8をたのしむ方法はある。無理はしないで欲しい

ということです。

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