『ドン・ファンの勝利』について考えた話

 福岡で『オペラ座の怪人』が上演される。
 実に21年ぶりなのだそう。現地のオペラ座ファンは大歓喜なのではないだろうか?21年キャッツを待った東海地方民である私にはその気持ちが痛いほど分かる。おめでとうございます。福岡オペラ座ファンを祝して味噌煮込みうどんで乾杯したい。暑いので冬に乾杯しときますね。

 さて、『オペラ座の怪人』には劇中劇が三つ出てくる。『ハンニバル』『イル・ムート』そして『ドン・ファンの勝利』だ。
 前者の二つについては分からないが『ドン・ファンの勝利』はファントムが二幕冒頭にガイコツの扮装をして現れ「オペラ書いたわ。演出もやるわ。」と一方的にスコアを押し付けて高笑いして去っていくのでファントムが作ったことが確定している。

 その後なんやかんやありつつ『ドンファンの勝利』が上演されるわけだが、その劇中にクリスティーヌはファントムにさらわれ、ピアンジはファントムに殺され、その死体が客前に晒される。
 物語はそのままクライマックスへと突入し、オペラ座の地下室へとシーンが切り替わってしまうので、その後オペラ座の舞台がどうなったのかは分からない。たぶん警察が来るまで客は劇場に缶詰めでゴシップも宣伝にならないようなパニック、阿鼻叫喚だったことだろう。南無三。

 ところで、劇中劇ではここで終わってしまう『ドン・ファンの勝利』、本来はどういうストーリーだったのだろうか?

 思い立ったが吉日なのでインターネット大先生に聞いてみる。すると劇団四季の公式サイトがヒットして『ドン・ファンの勝利』はモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』が下地になっていると言及されているのを見つけた。公式はなんでも教えてくれるねありがたいわぁ。

 じゃあストーリーも大体同じだろうから『ドン・ジョバンニ』のあらすじを調べて照らし合わせてみれば、大体あのシーンが全体のどのあたりなのか分かるだろう、と安易な発想で『ドン・ジョバンニ』を調べる。


 ウィキペディア御大の示すあらすじに照らし合わせてみたが、思ったより内容にズレがあるし、キャラクター名も登場人物もそこまで相関性がない。カルロッタの演じるキャラはどれなんだ。そしてパッサリーノのという名前の元ネタはどこなんだ。パパゲーノ?作品が違うな?
 色々しっくりきたりこなかったりしつつ、まぁそれでも大体このシーンは二幕頭に相当するのではないかと暴論気味に推察した。
 ということはこのシーンの前には幕間までの第一幕にあたる大体90分程度の物語と、この後70分程度、ラストまでの物語が存在することになる。

 クリスティーヌを連れ去り、ピアンジの死体が転がった状態で終幕まで舞台を続けるのは到底不可能な長さだ。ということは『ドン・ファンの勝利』ははじめからこのシーンでクリスティーヌを連れ去るために作られたオペラなのか?

 一幕目の『ザ・ミュージック・オブ・ザ・ナイト』のあとのシーンで、ファントムがこのオペラを作っているシーンがある。「🎵特別のご馳走」のところをとても真剣に作曲しているので、この時点では少なくとも純粋に上演するための作品として作成されているのではないかと思う。

 だがしかし、二幕『マスカレード』で自信満々に渡されたそのスコアは『支配人のオフィス』のシーンで支配人たちに「このスコア、酷いもんだ」「馬鹿馬鹿しい」と酷評を浴びている。好き勝手やられ放題の支配人たちが悪態をついているだけとも取れるが、そうは言ってもこれは「音楽の天使」が作った、本人いわく「完璧なスコア」なのである。ファントムのプライドの高さを考えても支配人に酷いと言わせるような作品を渡してくるとは思えない。
 ということは、『ドン・ファンの勝利』にはちゃんと作った曲もあるが酷いスコアも存在し、ファントムはそれを「完全なスコア」と許容していることになる。どういうことなんだってばよ……

 うんうん唸った結果、『ドン・ファンの勝利』は、はじめは気合を入れ、純粋な気持ちで作っていたが、途中で支配人が変わったりラウルが現れたりクリスティーヌが婚約したりと心が穏やかではなくなったからヤケを起こして「クリスティーヌ拉致用作品」に変更してしまったオペラ作品である、という結論に達した。
 そう仮定するとなんとなく辻褄が合う。真面目に作った「音楽の天使の才を尽くされた」曲もあれば、ヤケに任せて作り「酷いもんだ」と言わせてしまう曲もあるだろう。クリスティーヌを攫うための流れができている「完璧なスコア」だということにも納得がいく。『ドン・ファンの勝利』という名前も対ラウル用の命名だとすればなかなかエッジが効いている。そこにラウルが気づいているかは分からないが。

 そう思うと納得いくことがもうひとつある。マダムジリーがラウルにファントムの居場所を教えたことだ。
 それまで口が重く、ファントムの味方寄りだったマダムジリーが自らラウルをファントムのところへ導いていく。あまりにもやりすぎたファントムを止めるためだというのもあるだろうが、ファントムが舞台芸術であるオペラを使い捨ての道具のように扱ったことにショックを受け、失望したのもあるのではないだろうか。
 私はマダムジリーとファントムの絆は「お互いに舞台芸術を愛している」ところにあると思っている。そしてマダムジリーがファントムをここまで守りたかったのはその才能ゆえであるところが少なくないだろう。
 だからその才能を自ら蔑ろにして、支配人たちに「酷いもんだ」と言わせてしまうような曲を世に出し、あまつさえ作中に殺人を犯しクリスティーヌを連れ去って、幕を下ろす気のない作品を観客の前に出したことはマダムジリーに「もうダメだ」と思わせるには充分だったのだと思う。悲しかっただろうなぁとも思う。

 ちょっと長くなってしまった。『ドン・ファンの勝利』がどんな話なのかはまた別の記事で考えようと思う。

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