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「10年前、そしてこれからの僕ら」【東日本大震災 10年】

2011年3月11日。

東日本大震災から10年たった今、東北地方で東日本大震災を体験した弊部3人に、コロナ禍、サッカーの観点を踏まえつつ「3.11」について、そしてこれからについて語ってもらった。

※感染症対策として、以下のような対策を実施いたしました
1 検温の実施
2 会場内の換気
3 対談前後のマスク着用厳守

対談者紹介

豊田歩(とよだ・あゆむ)
新3年。東京都出身。前所属は國學院久我山高校。
3.11は、東京の小学校で被災。(当時10歳)
本対談のファシリテーター。

吉田賢人(よしだ・けんと)
新3年。福島県出身。前所属は福島県立安積高校。
3.11は福島県の自宅で被災。(当時11歳)

猪越優惟(いのこし・ゆうい)
新2年。宮城県出身。前所属は帝京長岡高校。
3.11は岩手県の小学校で被災。(当時9歳)

熊谷悠里(くまがい・ゆうり)
新2年。宮城県出身。前所属は東北学院高校。
3.11は宮城県の自宅で被災。(当時9歳)

震災当日

豊田: まず震災当日のことについて。
どんな震災体験をしたのか、今まで震災とどう向き合ってきたのか、というのを3人に話してもらいたいと思います。
よろしくお願いします。

熊谷: 僕は宮城県の仙台市で被災しました。

猪越: 自分は岩手県の盛岡で被災しました。
生まれは宮城ですけど、たまたま父の都合でそのときは岩手県にいました。

吉田: 僕は福島県の石川町という田舎の街で震災を経験しました。
当時、自分は小学5年生で1つ上の6年生の卒業式間近でたまたま早帰りで、自宅で友達でゲームしたりして遊んでいて。そしたら凄い家が揺れて、最初はトラックが通ったからその勢いで揺れてんのかなって思ったけど、「いやなんかこれ普通じゃないな」という感じになってきて、そこで急に凄く大きく揺れだして、とりあえずコタツに潜り込んだんだけど(揺れは)収まらなかったんだよな。

猪越: そう、最初なんかちょっと揺れたなって感じだったのにいきなり「ぐわー」ってきて。

熊谷: ほんと急でした。

吉田: いつ終わるんだろって感じで。

それで、おばあちゃんがドアを開けて「お前ら出てこい!」って言ったので、荷物も持たずに裸足で玄関まで走っていったら目の前を瓦がバーっと降ってきて。
正直、死ぬかなと。揺れがいつまでたっても収まらなくて長かったから。その時は死をほんとに感じたかな。

猪越はどんな感じだった?

猪越: 俺はその時小学校で授業を受けていて、学校中がパニックになりました。
先生たちが「早く出ろ!」って言って、急いで外に出ました。
小学3年生で子供だから、判断力もなにもないし、1年生や2年生もいるから学校中がパニックになっちゃって。それで学校にいても何にもなんないからっていうことで、集団下校で家に帰りました。
家に帰っても、自分の小さい兄弟2人ともガタガタ怯えてたし、母もすごく慌てていて。
そんな時に、電気は繋がっていなかったけど車のテレビでニュースを見ていたら原子力発電所が爆発してるというのを知って、叔母の家が福島にあったしりだとか、おばあちゃんの家の畑も全部使えなくて家も壊れていて。
ほんとに色々大変でしたね。

吉田: 俺は仙台空港の映像を、一生忘れないと思う。
空港を巻き込んで街を襲っていた津波の映像。

仙台は停電してて何も分かってなかったんだよね?

熊谷: そうですね、停電しててテレビもつかなかったんですけど、小さい充電式のテレビみたいなのがあったのでそれでニュースを見て「凄いことになってるな」って知りました。
震災当時は学校じゃなくて風邪ひいてて家にいて、家族は一緒にいたので安心感はあったけど学校の友達とか大丈夫かなって心配でした。

猪越: ちなみに歩君はどんな感じでした?

豊田: 震災当日も俺は東京にいて、学校の帰りの会のときだったかな。東京にいた俺ですら経験したことない揺れで、凄い覚えてる。担任の先生もみんなを励まそうとして頑張っていたこととかも。
でもそこから帰るまではいつもの避難訓練の延長みたいに捉えてた。けど家帰ってテレビつけたら、いろんなニュースが飛び交っていて、そこからしばらく何日もそのニュースが続いて、その時は本当に他人事には感じなかった。「ほんとにこれはやばいな」って。俺の震災の経験としてはこんな感じかな。

現在、震災とどう向き合っているか

豊田: 当日のことを話してもらったけど、現在震災から10年経ちました。それで10年経った今、自分の中での震災であったり災害はどういうものなのかということを聞いていきたいなと思っています。

吉田: まず10年、めちゃくちゃ早く感じてる(笑)

昨日のことのように感じてるけど、2011年3月11日の後に原発事故があって、当時はそもそも原発事故が起きることによってなにをもたらすのかよく分からなかった。けどその半年後に東京に遊びに行く機会があってお台場に行ったんだけど、どこから来たのって聞かれた時に自信持って「福島から来ました」とは言えなかった。
やはり放射線に対する風評被害などが実際あって、関東にある福島県ナンバーの車が壊されたとかいうのもあって。
普通に福島県出身とは、震災から半年経ったくらいの時では言えなかった。
10年経った今は、もう堂々と言えるけど。もちろん放射線の被害が収まってきたというのもあるけど、皆んなが正しい情報を知ったというのも大きいと思う。
自分の出身県を言えるようになったのは、俺にとってはプラスなことかな。時が解決してくれることもあるんだなって。

猪越: 放射線の話で、今のコロナ禍の現状にすごく似てるなと思います。今地元に帰っても、「東京から来ました」なんて口が裂けても言えないから(笑)
ほんとにそれと同じ状況なんだなって。今だからこそ東京や関東圏の人も、当時の放射線による風評被害のことがよく分かるんじゃないかなって思いました。

熊谷: 自分も帰省したときに、「東京から戻ってきた」って言うと、「え、コロナ大丈夫?」というのがみんなの反応で。ちょっと嫌な顔されて(笑)

吉田: 今の現状、ほんとにあの時を思い出した。
あの時もサッカーとかも、土に放射線が付いてるとかで制限されて、運動会もお弁当を食べちゃダメみたいに制限されて。マスクもしてたかな。

猪越: 自分のおばあちゃんの家も福島にあって、大きい畑があって、野菜や果物をいっぱい育てていたんですけど、放射線の影響で全部駄目になってしまって。おばあちゃんも歳だったので、それを機に畑を辞めることになってしまって。自分はそこで取れる野菜や果物がほんとに好きだったんで、今思い返してもほんとに深刻なことだったんだなって改めて思いますね。

吉田: 高校3年生になったときに、ようやくJヴィレッジの近くでリーグ戦をやることができて、Jヴィレッジは震災のとき拠点になっていたところだから、ここまで戻ってきたんだなって実感した。
そのために動いてくれた大人の方々に頭が上がらない。

豊田: 今、10年経って復興の進み具合って実際どうなの?

猪越: この間、ちょうど宮城に帰って沿岸部の方に行ったんですけど、津波の被害はすごいなって改めて思いました。全然復興してないんですよ。流石に瓦礫とかはないですけど、前まで家があったのに、更地になっていて。

吉田: 結局、復興復興って世の中の人たちは言うけどまだまだ現実は変わっていないところはある。前に進んでる部分ももちろんあるけど。

猪越: 「ほんとに10年経ったの?」って感じな更地なのでこっちの人にも見て欲しいです。

豊田: 今の被災地と言われるところを見てる3人からしたら、東京の人たちと震災の捉え方について違うなとか思ったりすることある?

吉田: 自分はあるかな。
去年友達と3月11日にデパートで遊んでいて、3月11日14時46分に黙祷はあるものだと思っていたけど、
でも少なくともそのデパートでは誰も気に留めていなくて。
結局忘れてしまうものなのかなとか、震災の被害の違いで捉え方も変わってきてしまうのかなって思った。

猪越: 東京だけじゃなくても、自分の中でも震災の後は、少し揺れただけでも敏感に反応していたけれど、10年経ったりして、小さい地震に気づかない時もあって自分の中でもこんなに変わっちゃってるんだな、っていうのはショックでもありますね。

熊谷: この前の地震(21年2月13日)も周りは結構揺れたとか言ってたけど、あの日の揺れの強さを基準にすると、これは大丈夫だって思ってしまって。逆に良くない慣れだなって思いました。

吉田: 時間が経つにつれて、地震に対する考え方も変わってきているんだなって感じてるかな。

震災とコロナ。そしてこれから

豊田: これからどう震災と向き合っていくのか、中央大学サッカー部の活動コロナ禍の現状を絡めて話していきましょう

猪越: コロナで急に2ヶ月くらい練習ができない期間がありましたけど、震災の時も同じ感じで。
自分の友人は、グラウンドが無いどころかサッカー用具はもちろん家もない状態で。
もちろん人の命が関わっているのでコロナは大したことないとまでは言わないですが、震災はそれを超えてくるものだと思っているので、いつそういうことが起きてもいいように準備していかなければならないし、あの時は親とか先生がいて守ってくれたけど、寮生や一人暮らしの人は、特に今は準備しとかないと生死に関わると思っています。

熊谷: 震災とコロナ禍の現在で共通している部分があると思っていて、当たり前の生活を送れていることに対して感謝して1日1日を大切にしていこうという気持ちになることは同じかな、と思います。

吉田: 自分は当たり前が当たり前じゃなくなったときに人間は本当の姿が出るな、と思っていて。
振り返ったときに去年の自粛期間の時、部として何か出来たんじゃないかと後悔してるし、自分も遠慮しないで色々提案すればよかったという後悔がある。(コロナ禍という現状に対して)大学生だからこそ発信できることがあって、その辺を自分たちで出したかった。

豊田: いろいろな災害において、悲惨な体験をした方々にとっては忘れさせて欲しいのか、風化させてはならないのか、3人はどう思っている?
3人にもそういう葛藤があると思うけど、風化させない活動をやっていくべきかどうなのかな?

吉田: 自分は、震災を本当に忘れたい人にも出会ったことがある。
それでもやはりまたこういう事は起きる可能性が高くて、そういう時に向けて自分たちが伝えていくことがほんとに大切だと思ってる。

熊谷: 僕は、震災は思い出したくないという友人もいて、それでそういった被災した人たちの気持ちを踏まえた行動をしなきゃいけないとは感じました。

猪越: 自分にも、津波からギリギリで逃げてきた友人や家族を失った友人もいるので、そういう人たちの気持ちも考えなければならないけれど、やはり生まれてから大きな震災を経験していない人もいるので、こういう出来事があったことを伝えていくのは大事な事だと思います。

豊田: やはり10年経って、だんだんと震災の記憶が薄れてくるよね。
だからこそ10年という節目で、中大サッカー部がこういう話し合いを持てたことはすごく価値のある事だと思う。

猪越: いろんな人に1回見てもらいたいですね、震災の時の写真が飾ってあるような記念館を。

吉田: 自分が震災を経験した歳くらいの年齢の子たちは震災を体験していない世代になってきていて、戦争もそうだけど伝えられる人が時が経つにつれて、減っていってしまう。だからこそ伝えていき、もう一度同じような事態になったとき、率先して人を助けられればいいかな。

震災とサッカー

豊田: 我々はサッカー部ですから、震災で得た教訓でサッカーに活かせることについて話していきましょう。

猪越: 津波で家族を失ってしまった友人は、そのことを原動力にサッカーを頑張っていました。そこまで大きいことでなくてもいいけど、コロナ禍だったら緊急事態宣言でサッカーできてなかったことを原動力にしていくという風にサッカーに繋げていければいいかなって思います。

吉田: 当たり前だと思っていたことは誰かが支えてくれているからあるもので、サッカーができるのもスパイクを買うのも、親がお金を出してくれて大学に行くのもお金を出してくれて、それでサッカーをやらせてもらっている。
去年でいえば、流経大学さんが会場を提供してくれてリーグ戦が成り立ったわけで。
だから当たり前は、自分1人のものではない。誰かの協力や思いがあって実現する。
そういうことを自分たちはもっともっと発信していく力を中大サッカー部としても身につけていく必要があると思う。
去年までいた、山中登士郎コーチが言ってた「明日サッカーが出来なくなってもいいようなプレーを」というプレーをしていかなければならないと思った。

猪越: 震災はなんの前兆もなくいきなりやってきて一瞬にして、日常を奪って非日常にしていきます。
そのため震災にはあらかじめ準備が必要ですが、今回のコロナはだんだん感染者が増えたりと、予兆がありました。その予兆の段階で自分たちでいろんな準備ができたのではないか、と思いました。
そういうところをサッカーに絡めると、(敗戦が続くといった)予兆があっても対応出来なかったことが去年の中大の結果(関東2部降格)に繋がったのかもしれないです。

吉田: それこそ準備というところに関しては、サッカーをするまでにやらなければいけないことはたくさんあって、例えば1日の24時間の内、試合は90分で終わってしまう。
ピッチに立つまでの色んな行動全てが、ピッチ内での行動と同等かそれ以上に大切なことだと思ってるかな。

熊谷: プレー以外のところでは、1年生の仕事の片付けで、練習後に用具が片付いていなかったときがありました。それに片付けてないこと自体に気づけてない状態でした。
このことは、コロナは予兆があったのにそこに対応して行動できなかった話にも繋がってくるなと思います。
そういう小さなことから気づいて行動することが重要だなって思っています。

最後に

豊田: 最後にそれぞれこの対談の感想をお願いします。

熊谷: 今回このような機会を設けていただいて、自分の中で現在のコロナ禍に対しても変えていかなければならないことを強く認識しました。
また今回の対談で、少しでも多くの方に震災について伝わるものがあれば幸いです。

猪越: 自分が話すことで、自分の中の災害に対する意識も変わっていくし、この対談を見てくださった方の意識も変わってくれたらほんとにいいなと思いました。災害だけでなくコロナ禍という現状にも繋げられるものもたくさんみつられたので、それをこの場だけでなく、日々の生活やサッカーに繋げられればいいなと思います。

吉田: 今回この対談をしたいと言ったのは自分で、10年の節目で改めて震災という体験を振り返って、そして今の現状と絡めながら話をしました。
それでもまだ自分たちにやれることは計り知れないと思っています。今日話した3人を始め、東北出身者としての誇りを持って毎日を過ごしていきたいなと思いました。
まだまだコロナによって、制限されることは多いと思いますがその中で自分たちができることをこなしていき、中央大学サッカー部として成長できたらいいなと思っています。
そしてそういう環境がある中央大学サッカー部にしていきたいと思っています。
今年は関東リーグ1部復帰を目標にしているので、1人1人が自覚を持って、チームのために、そして多くの方に応援していただけるように発信をしていきたいなと思っています。
これから応援よろしくお願いします。

東日本大震災から10年。

この節目にもう一度震災と向き合ってみるのはいかがでしょうか。

日々の日常に感謝し、皆さまのご協力もあり実現する当たり前を"、当たり前"で終わらせないよう、中央大学学友会サッカー部は活動・発信して参ります。
是非、今後とも応援よろしくお願いします。
               (文責:林壮真)

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