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『これが人生であったのか。よし、それならもう一度』~偶然と想像とニーチェとロラン・バルト~


    濱口竜介監督の最新作『偶然と想像』を、ロラン・バルトの記号論とニーチェの哲学を用いて分析したい。2021年に公開された『偶然と想像』は、『魔法(よりもっと不確かな)』、『扉は開けたままで』、『もう一度』の3つの短編から成るオムニバス映画である。あらすじは以下の通りである。




シニフィアンとシニフィエ

     

    まず、バルトの『ロラン・バルト映画論集』にある記号学の枠組みを援用する。バルトは記号学者であるソシュールの編み出した概念である、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)を映像作品の分析に応用する。映像作品におけるシニフィアン(意味するもの)は、『画面の舞台装置、服装、風景、音楽などであり、またある意味での身振り』¹である。映画では、いくつかのシニフィアン(意味するもの)が列挙・あるいは結合されることによって、一つのシニフィエ(意味されるもの)を指し示す。シニフィエ(意味されるもの)は、概念的であり、いわばその映像作品の思想である。シニフィアン(意味するもの)は、シニフィエ(意味されるもの)を定義するというよりも、観客の記憶の内部にあるそれを「現実化」し、「呼び出す」²のである。



情報伝達のレベル

    

    またバルトは映像分析において、「意味自体」も三つのレベルに区別できると唱える。一つ目は情報伝達のレベルである。これは舞台衣装や、登場人物、それらの様々な関係からもたらされる知識の一切のことである。たとえばこの作品の一話目である『魔法(よりもっと不可思議な)』において、主人公である芽衣子が、その元交際相手である和明の職場に押し入るシーンがある。一度は和明に頼まれて二人を後に職場を出ていった同僚の女性が、しばらくして主人公の芽衣子と立ち代るように忘れ物を回収しに来るが、彼女は出ていった芽衣子を追おうとする和明をいささか強い語気で諫める。私はこの女性の態度から、彼女の和明への強い信頼や友情のようなものを読み取った。ここでは、シニフィアン(意味するもの)は職場の女性の言動であり、シニフィエ(意味されるもの)は彼女と和明の関係性である。



象徴的なレベル


    二つ目は象徴的(サンボリック)なレベルである。このレベルでは一つ目のレベルと違い、精神分析、経済学、記号学、歴史的な背景などを援用して練り上げられないといけない。私は、二話目の『扉は開けたままで』の題名に注目した。これは、自分の部屋の扉を閉めないように絶えず気を配る瀬川教授の心理を象徴しているのではないだろうか。密室の空間で人と対面することには、リスクと誘惑がある。一方でパワハラなどのプライベートな暴力の場になりうるし、他方で教授ー生徒といった枠組みを超えた親密な絆が発生しかねない。孤高の人間として自分の道を進み続けてきた瀬川教授にとって、他人と密室の空間を共有することへの抵抗は最後まで消えなかったのではないだろうか。ここでは、シニフィアン(意味するもの)は「扉は開けたままで」という音声と文字であり、シニフィアン(意味されるもの)は瀬川教授という人物の価値観である。

    


「鈍い意味」のレベル

    

    三つ目は「鈍い意味」のレベルである。一つ目や二つ目の意味のレベルでは、上述したシニフィアン(意味するもの)がシニフィエ(意味されるもの)を指し示していた。しかし三つ目の「鈍い意味」のレベルにおいては、シニフィアン(意味するもの)しかないのだ。この第三の意味は、何かのコピーであることをやめる。「鈍い意味」は「私の理解がどうしてもうまく吸収することのできない追加分として、余分に生ずる、頑固であると同時にとらえどころのない、すべすべとしていながら逃げてしまう意味」³である。それはバルト曰く、日本の俳句のようなものである。俳句は、「表意的な内容を持たない頭語反復的な身振り、意味(意味の追求)が抹殺された一種の傷跡」⁴である 。「鈍い意味」は「岸辺を漂っていて、それらいずれの岸辺にも決して近づくことはない」のであり、私たちはこの第三の意味を「想像力」というバネを使って次から次へと重ねていくしかないという。したがって「鈍い意味」を追っていく作業は、その他の意味の分析からすると、陳腐で、言葉遊びに映ってしまう。しかしそれは同時に、社会が作品の受け手に強要してくるものから距離を取らせ、作り手ではなく受け手に積極的な重点を置くことでもある。こうした言語の試みを、バルトは「冒険」と名付けた⁵ 。



世界そのものの偶然

    

    バルトが映画評論において試みたように、私も『偶然と想像』における「鈍い意味」に迫ってみたい。以下、この作品における「鈍い意味」だと私が受け取った箇所を、無造作に並べて、そこに合致するようなモチーフを、過去の読書体験から文脈を無視して引用していく。

    濱口監督が明かすようにこの三つのオムニバスは、一話目から段階的に偶然性の度合い、物語の奇想天外さのレベルが上がっていく。確かに三話目に至っては冒頭からSFじみた設定が登場する。日常に潜む偶然が重なり合うことで、物語は全く想像もしていなかったような展開へと進む。しかしよく考えてみれば、どんな「日常」も、どんな出来事も、究極的には全て偶然なのではないだろうか。そもそも芽衣子と和明が出会ったことも、奈緒が自身の性に関する疎外感を抱いてきたことも、夏子が同級生を愛してしまったことも、物語の発端からして既に偶然である。世界のあらゆる出来事は、世界そのものも含め、なぜ「そう」であったのか誰も説明できない。たとえ過去から未来の全てが自然法則に基いた必然性を帯びているのだとしても、そうした自然法則がこの世界に存在すること自体はまた偶然である。



偶然と必然

    

    三話目の「もう一度」というタイトルは、ニーチェ哲学のイメージをこの作品の「鈍い意味」へ無理やり重ね合わせるのにうってつけだ。ニーチェは永劫回帰という思想において、偶然性と必然性が溶け合った運命を愛することを説いた。偶然性と必然性が溶け合っているとはどういうことか。上に述べたように、この世界の全てが偶然であるとしたら、「もしあの時あの人にこう伝えていれば」「自分の大切な感情のために戦っていれば」という風に過去を断罪し、あるいはその過去の延長線上にある現在を呪うことは誰にも出来ない。「すべては無罪」⁶なのである。もっと言えば、そうした後悔や苦悩も含めて、この世界から取り除かれるべきものなど何も無いのである。「意味づけと評価による汚染から免れることによって、はじめて、現にそうであることそれ自体、そうであったことそれ自体が、その剥き出しの事実性が、それ自体で、輝き出す」⁷のだ。



永劫回帰と運命愛


    しかし人はどうしても、意味付けやいつか来る未来における評価などに走り、現在の生を、あるいは自分の過去を断罪してしまう。それを禁じるのが永劫回帰の思想である。永劫回帰は、「あなたのこれまで送ってきた人生が、そっくりそのまま全く同じ順序で無限に繰り返すとしても、それでもなお、あなたは自分の人生を肯定するか?」という問いを投げかける。永劫回帰は来世を想定するのではなく、来世を強く否定し、あるいは「無効果」する思想である。もし自分のこの人生が無限回繰り返されるとしたら、来世における新しい人生や、天国・地獄などといったものは存在せず、私たちはただこの一回限りの人生しか生きられないことになる。私の人生が現にこのようなものであることは、全くの偶然であり、どんな選択肢も「これ」以外にはあり得なかったという意味で、必然でもある。偶然と必然が溶け合ったこの運命を愛すること、それが永劫回帰を受け入れた人間の到達する場所であり、そこでは「もっとも醜い人」までがこう叫ぶと言う。「これが人生だったのか、さらばもう一度」。恋人が自分の元を去ったことも、「心に決して埋まらない穴が出来た」ことも、そして恋人に似た別人と出会ったことも、全ては偶然であり、そこには何の意味もなく、しかし何らかの意味付けが存在しないからこそ、悲しみも喜びも「それ自体で、輝き出す」のである。



再会


     夏子と「あや」は、自分たちの人生を、それが現に今あるような形でしかあり得なかったということを、最後に肯定したのではないだろうか。「ただし清算はできぬままに」⁸。久しぶりの「再会」が人違いであったことを知り、それでももう一度「再会」を演じることで、お互いの運命そのものを肯定し合うのである。二人は、「最初の出会いをその差異において肯定する」⁹。つまり、この二度目の「再会」の肯定を通して、単なる人違いであった一度目の「再会」も肯定し、さらに、夏子は離ればれになった恋人をそれでもなお愛し続けた運命を、「かや」はずっと続いてきた「燃え立つものが何もない」人生そのものを肯定する。二人は「相手(以前の、あるいは新たな)に向かって言う、もう一度はじめようと」¹⁰。

  (飯野広)



参考文献


¹ ロラン・バルト『ロラン・バルト映画評論集』諸田一治訳 ちくま学芸文庫p.57
² 同上p.64
³ 同上p.232
⁴ 同上p.37
⁵ 同上p.233
⁶ 永井均『これがニーチェだ』講談社現代新書p.164
⁷ 永井均『これがニーチェだ』講談社現代新書
⁸ ロラン・バルト『恋愛のエクリチュール・断章』三好郁郎訳 みすず書房 p.39
⁹ 同上p.40
¹⁰ 同上p.40

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