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はじめて”差別”と向きあった日

今日の話は最近のことではありません。もう20年ほど前の話になります。最近、noteを書いていて、自分の記憶の中のいろいろなことが思い出されるようになりましたので、書いておこうと思います。

まずはちょっと長めの前置きをしなければなりません。

わたしは日本でもけっこう特殊な土地で生まれました。大阪市生野区。ここは在日コリアンが多く住む街です。

今から80年くらい前(大正時代)から、朝鮮半島からたくさんの人が大阪へ出稼ぎに来ました。その人たちが生活に必要とするものを売る市場ができ、韓国・朝鮮人のための街ができていきました。

2018年のデータによると区の人口の21%が外国人。
そのうち80%近くが韓国・朝鮮籍(2万2000人)とのことです。

さて、そんな土地なので、地元の小学校・中学校では道徳とあわせて韓国・朝鮮の歴史や文化を学びます。わたしが通っていた学校でも、授業では日本籍、外国籍関係なく、戦争の歴史、韓国・朝鮮文化を学びました。

そして、通常授業とは別に、韓国・朝鮮籍の子供たちは”民族クラブ”という特別授業に参加することができました。ここではハングルを習ったり、楽器演奏の練習をして発表会に出たり、地域に住む年配の在日コリアンの方から話を聞いたりといった活動をして、より深く母国の文化・歴史を学びます。(小学校・中学校どちらもありました)

このクラブは任意参加で、参加している生徒は韓国・朝鮮籍の学生の半分もいなかったはずです。ですが、中学生のころ仲がよかった友達の多くがクラブに参加していました。

ここからが、わたしの話です。
実は、わたしの父方の祖父は韓国済州島の出身で、韓国人でした。つまり、父はハーフ。わたしはクウォーターです。

とはいえ、大正生まれの祖父は10歳になるかならないかのときに日本へ渡ってきて、韓国語もまったく話せなかったし、韓国のことは何も覚えていないと言っていました。

また、父は帰化していたので、国籍だけみるとわたしは日本と日本の子どもです。そしてわたしは韓国語にも韓国文化にもほとんど触れることがないまま育ちました。

話が戻って、民族クラブの話です。
仲のいい友人たちはクラブの活動を楽しんでいたものですから、中学生のことです、「自分もクラブに入りたい」と思うようになりました。

しかし、問題がありました。このクラブは”韓国・朝鮮籍であること”を条件としていたのです。わたしは日本籍なので参加条件に当てはまりませんでした。

クラブ顧問に参加を断られ、当時のわたしは「なぜ!?」と強く疑問に思いました。

”韓国・朝鮮にルーツを持つ子供たちが自分たちの文化を学ぶため”に民族クラブはあります。なぜ、4分の1とはいえ、確かにルーツを持つ自分が入れないのか。

当時、今から20年くらい前-韓流ブームはまだ少し先のことで、まだまだ在日コリアンに対する差別偏見が根強かった時代の話です。

生野区出身の在日コリアンにとって、地元を出たら通名を使って韓国・朝鮮人であることを隠すのが当たり前でした。そうでなければ差別されるから。

本当を言うと、父もハーフであることで嫌な目にあったことがあり、わたしがクラブに入ることにも反対していました。その時の父は”日本人”でいたかったようでした。

最初は仲良したちがいるからという理由でしたが、そうなれば中学生ながら意地があります。

差別された歴史が悲しいと思うなら。差別や偏見をなくすためにも、日本人・外国人の分け隔てなく、知りたい者に門を開けばいいじゃないか。むしろ、これこそ差別じゃないか、と。

わたしは祖父や父が教えてくれなかった(教えられなかった)ことを知りたいと思ってるだけで、それの何が悪い、と。

父を説き伏せ、折れた父といっしょにクラブ顧問に話をし、最終的に学校ではじめて日本国籍のクラブメンバーになることができました。

これだけの行動力、その後は一度も発揮しておりませんが…なぜあんなに熱くなってたんだか。

日本で生まれ育って日本語しか話せない韓国・朝鮮籍の友人には制度上の不平等があるし、生野区でヘイトスピーチが行われたという話も聞きました。

わたしは”日本人”だから、日本で生活する上で影響を受けたことがありません。だから、甘ちゃんな考え方をしていたかもしれません。わたしが韓国にルーツがあることを公にして、嫌な思いをしたことがないのも、”日本人”という前提に立ってるからかもしれません。

ただ、あの時のわたしには「なぜ世界を閉じてしまうのか」という疑問だけがありました。あるいは悲しかったし、怒ってもいました。

同じ地域に住みながら、日本人と在日コリアンはあまり混じりあわずに過ごしてきた歴史があります。

在日コリアンは同じ韓国・朝鮮籍の人同士で結婚することが多く、生まれてくる子どもは外国籍になります。父のようにハーフの子どもは当時は生野区でもむしろ珍しかったし、だからこその苦労があったようです。

今、生野区は昔以上に多国籍な街になりました。ベトナム人やネパール人などが増え、久しぶりに地元に帰るとびっくりします。

でも日本自体がますますそうなっていくのでしょう。楽観視すれば時代がかわるのと同時に、人の考え方も自然に変化して、お互いに開かれていくのかもしれません…が。

今はベトナム人日本人ハーフの子どもや、日本で共働きをするベトナム人夫婦とその子供と、わたしは関係を持っています。彼らのことを思い浮かべながら、長らく記憶の引き出しに閉まっていた出来事が思い出されたのでした。

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見出し写真は、節分に恵方巻きとキンパ(韓国海苔巻き)が並ぶ食卓。

ご近所さんからのおすそ分けが自宅でつけたキムチだったという地域の特殊性には社会に出てから気づきました。

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