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たいしたことない日々のこと0614

どうでもいい記録の日記、たいしたことない日々のこと。

あまり発する意味や意義を感じない言葉、思考、生産物のなりそこない、それでも見られることを意識しながら書くこと、あるいは時間の変容でどれくらい考え方が変わっているのか知りたくて不定期にnoteでの日記は残しておこう、と思い更新する。あまり読み返しはしないからほぼ一発書きで。

8年ぶりにストレングスファインダーをやってみた。友人と他己分析について会話を交わした時に話題にのぼり、そういえば自分も過去に関心があって試したなあとむかしの記憶をたどってみたらそれは2012年9月で、数年前の出来事でもなく随分昔の、8年前だった。上京して2年目で東京のこともよくわかっていない時期、東日本大震災が起きて1年後。理想とする職場で覚えなければいけない技術とそこに追いつかない自分。気持ちが焦って、でも立場や役職あるいは確固たる自己を獲得せねばと感じていた頃。当時のわたしの結果はこうだ。

共感性、収集心、内省、最上思考、自己確信。なるほど、この頃は「圧倒的成長をめざす!」「自分には成し遂げられる!」みたい果てしない向上心と根拠のない自信を、両腕からこぼれるほどいっぱいに抱えていたな。むしろそうではなければこの世界では、あるいは東京では、生きていけないとも信じていた。必死でないと振り落とされる、こぼれ落ちる。何か才能や技術を見出したものだけが勝ち抜ける社会で、強みを武器にしてたくさんの傷をつけながらも戦う日々。手を差し伸べてくれるひとなどうわべならたくさんいたけれど、本当のところはどうだったか、いまもって続いている関係性はごくわずか。正解は自ら見出さなければならず、なにが正しいか間違っているかの判断基準もうまくもてないまま限られた「座席」に座ろうともがいていた。もし当時、現在のインターネット世界に溢れるキラキラしたオンラインサロンがあったのなら加入していただろうかと想像するけれど、さすがにそれはないか。品格、のような別の話。

そして今回は、学習欲、内省、収集心、個別化、ポジティブ。

なくなったのは最上思考自己確信。確かに職場での最上思考は持ち続けているけれど自分自身を突き動かす理由にはなりえていない。自己確信については、自信なんて蟻のようにちっぽけであると感じる。共感性はあると信じたいが、自己と切り離して考えようとしているかもしれないし、どこまでひとを理解できるのかという限界点を知ったような気がするし、いつも「寄り添うこと」「わかりあうこと」への疑いの目をもっている。

少しだけ笑ったのはポジティブという項目が飛び込んできたこと。確かに悲観的な感情はめっきり減ったのかもしれない。20代後半でフランスに行って楽しく生活できたから?自信のなかった巡礼も意外に歩ききれたから?目標とする職業に就けたから?いずれにしてもマイナスの方向に考えても解決しないとは思うようになった。学習欲個別化。自己の高みを目指すよりも、学びたい、知識を得たい、それが他者の才能を生かせると知ったのはいつからだろう。自分でできることの限界を理解した時が分岐点か。いまはチームも仲間も、多様な存在があるからこそ飛躍できる、心底思う。

変わらない収集心内省。人の内面など変わることもあるし、変わらないこともある。MatrixのRevolutionsのナイオビとモーフィアスの掛け合いでそういう会話があったな。「絶対に」「全てを」「永遠に」「最後まで」、なんて形容詞を先に伸ばさなくてもいい。朝令暮改でいいじゃないか、初志貫徹でもいいし、不撓不屈の精神なんかなくてもいい。どちらにも振れるように、行ったり来たり移ろいゆくさまこそ人間の曖昧さ。プログラミングされた機械じゃないのだから、ねえ。

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ビザ申請をする予定の大使館前をお散歩をしていたら、紫陽花があちこちに咲いていた。紫の陽の花であじさい。白い紫陽花もあるけれど紫の文字であじさい。あ・じ・さ・いという音の響きもいい。そして色。紫、青といった色素はアントシアニンからくるものだという。梅雨のこの時期に見つけると、立ち止まってつい凝視する。この花はどこか宇宙の神秘を感じさせてくれるから、見ていて飽きない。ちいさな萼がそれぞれ懸命に、空白を埋め尽くすように咲き誇る。最も好きなのはガクアジサイのつぼみの密集地で、ちいさな虫になってその上を飛び回りたくなる。線香花火のように伸びる雄しべと雌しべが、さらなるお祭り気分を演出してくれそう。

紫陽花の美しさはいつまで楽しめるだろう。今度大使館に訪れたときには、もうすっかり枯れきってしまっているのかな。


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