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書くことについて。ゆたかな言葉の海に飛び込んだ、その覚悟だけが残る。

前回の日記更新から懸念を抱えていた、滞在先の住居さがし。いまも全く見つかっていない。8月末の時点でどこに住んでいるかわからないという不安定状況。ただ、期限だけが迫りくる感覚はなつかしくて、どこか嬉しさもはらんでいる。紐解けば2017年8月、フランスに戻ることは決めたけれどそれ以降の覚悟はなにひとつなかったときのこと。ただ「スペインの大地を歩くか、歩かないか」その質問が眼前にあった。結局歩き始める前日までわからないことだらけで、焦って、不安でたまらなかったけれど、身体だけ前に進み続けていたら気持ちがあとから追いついてきた。なんとかなるなんて楽天的に捉えられるのは過去のそういった経験が支えになって、今にあるのだろう。今回もきっと大丈夫、うまくいく、呪文のように唱え続ける。

経験といえば。最近読んだこの記事が、自分の考えをしっかりと言語化していて清々しい気持ちになった。

「こういう出来事があった」という実体験に基づくエピソードがエッセイの主軸であり書き出しの定型文のようなものになるのだけれど、その出来事自体が「スペシャル」なものであったとしたならば。誰もがそう滅多に経験しなさそうなものだとするならば。読み手側にどんな感覚を抱かせるだろう。「素敵だな」「体験してみたいな」という憧れも生み出すこともあるかもしれないし、例えばその経験に憧れて「がんばろう」とか「努力しよう」とかモチベーションに繋がることもあるかもしれない。

一方で、「面白い経験をしていない自分は何もない」と考えてエッセイを、あるいは文章を書くことから目を背けてしまうひとがいることも想像に難くない。例えば自分には執筆者のような珠玉の才能を持った人間、属性ではないし、それほど他人にも恵まれていないし、平凡な人生だし、とか。こうやって「書ける事があるひとはいいよね」と羨んだりひがんだりすることもあるだろう。

ドラマティックな経験はひとを魅了する。ドラマだから当然だ。他人の人生は事実でも虚構でも関係ない。自分にはない架空の人生、客観性を持って消費できる。肉体的にひとつも傷つくこともなく、痛みを感じることもない(もちろん心の傷は生まれることはある)。そして誰かがぽつりと呟く。

「これは、経験したひとにしか見えない景色だ。」

わたしはつくづく、この言葉にうんざりするような思いをする。経験値にどれほどの説得力があるというのだろうか。全ての論拠の判断として「経験」が置かれるのならば、ボルヘスは、カフカは、村上春樹は、オルガトカルチュクは、小説家はこの世の森羅万象あらゆることを体験して、それを集約して本を書いているのだろうか。見て聞いて知って、だからこその表現が生まれるのか。いやそんなことはない。経験だけではない「想像力」を用いて、文章で世界を描写するはずだ。言葉を巧みに操って、機械のように組み立てる。それが読み手のあらゆる感情の装置を作動させる。

つくづくエッセイとはなんなのかと考える。もちろん想像で書くエッセイは事実ではないし、小説と捉えるべきだろう。ただ、どれだけ全ての本当のことを文章に書けるのか、真実だったのかどうかということは他者が追求することはできない。須賀敦子さんだって向田邦子さんだって、過去の家族の出来事を描写して数々のエッセイを出版したが、どこまで事実かは彼ら本人にしか知り得ない秘密である。だから書くこととはあくまでも一義的な解釈の一方的押し付けといっても過言ではない。

わたしが文章を書く理由、それは出来事を共有したいからではなくて自分の思考の過程を残しておきたいからである。できるだけ書きながら物事を考えて、解釈を深めてみたい。今この瞬間しか頭にない漠然とした感覚を、きちんとメモを残していたり言語化しておきたい。だからどちらかといえば運動に近い。そして読まれるための文章を書くのはブランコのように行ったり来たり、振り子のように何度も揺れる運動を繰り返して、正しいフォームを見出す作業でもある。お母さんやお父さんに、兄弟に、友達に、先生に「見て」と言えるまで十分に練習を繰り返す。原動力は「楽しい」気持ち。

このあいだ友人と話していて、何度目かわからないその真理にたどり着いた。自分が何をしているときに楽しいと思えるか。わたしはやっぱり、書くことに尽きるんだよなあ。

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上にリンクした記事が公開された日だったか、24時間で消えるnoteといって個人的な体験を書いた記事がネット上を賑わせていた。実際に読んでみたらとても素敵で、きらきらと輝いていて、わたしはこういう書き手にはきっとなれないだろうなと感じた。単純に感情としての悲しさや悔しさを持ったのではなく、文章へのアプローチが異なっていると捉えたのである。そして後で知ったところ、該当記事にはネガティブな反応が多かったらしい。このリンク記事も「スペシャルな経験」という言葉を用いているということは、もしかしたら揶揄するひとつでもあったのかもしれない。

どちらがあってもいい。経験を書くひともいていいし、書かないひともいていい。文章はペンと紙あるいはパソコンやスマホがあれば誰にでも始められて、書きたいと思ったときに言葉の海に飛び込むことをした覚悟だけが、そこに形としてあるだけ。

経験。それは自身の支えとなり、勇気付けたり前向きにしたり、背中を押す役割として十分つとめを果たす。明け透けに出来事を書ききるよりも「実はこんなことも経験していたんだね」と実際に話して存外に感じさせるほうが、直接会話するコミュニケーションの醍醐味がある。文章ですべてを知ることなど不可能なのだから、出来事を文章で伝えず、大切な思いはひっそりと胸の内に隠す。そういう素ぶりができるひとのほうが格好良くて、わたしは好きだ。

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