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歩くとは、少し止まること。

昔から尊敬していてだいすきな先輩が、noteを日記のように使っているらしく、それいいなって思ってたので、私もたま〜に日記をつけてみようと思う、というかもっと気軽にnoteを更新してみようと思う

私にとってインスタやTwitter(もうXか)は、必ず見る人がいて、なんとなくその人たちを意識して発信している自分がいるけど、noteはそれとはちょっと違う。

知ってる人とは誰とも繋がってなくて、知らないどこかの誰かがもしかしたら読んでくれるかもしれないだけの、私の言葉を存分に使っていい、わたしだけの世界ってかんじ。
家族の前とも、友達の前とも、恋人の前ともちょっと違う、素直でまっすぐなわたしを出していいようなかんじ。

無論、Xのプロフィールにはこっそりリンクを貼ってるので、知ってる誰かも見てくれているかもしれない
noteでは、誰にも知られたくないような、だけども実はみんなに知ってほしいような私を表現しているから、もし誰かが私のnoteを読みにきてたとしたらとても嬉しい、
その意図的に空けておいた扉の少しの隙間から、蓋のされていない私の気持ちを少しだけ感じ取って、優しくあたたかい心の目で、私を見守ってほしかったりするから


最近、心がじわあっとなることがよくある。
枯れた心が、着実に生き返ってきている証拠だと思っている。

いま、私の中では大きな心情の変化が起こっている
ずっと前に進むことを拒んでいた心が、少しずつ一歩ずつ、前に進んでいる気がしてる
昨年の夏頃には限界がきてしまい、仕事も辞めて、とりあえず死なないことだけを目標にしていたが、いつのまにか色んなことの心の整理がついてきた気がする

太陽が眩しいこと、音楽を聴いて気持ちが高鳴ること、春の匂いを感じること、ラーメンを完食できること、ドンピシャの洋服と出会い衝動買いすること、箸が転がるだけで笑えること、体調が普通なこと、たまに胃が痛くなって胃の存在を意識すること、飼ってる犬が甘えてくること、ときにやんちゃで手に傷ができちゃうこと、夜のコンビニに行くこと、ふわふわの毛布に包まれて眠ること、かわいいと言われること、賢いと言われること、毎日誰かと連絡をとれること、大切な人の声が聞けること、大切な人のあたたかさを感じること、誰かに愛されていること、誰かを愛すこと。

いまは、考えるだけで尊くて幸せな日常の中に、私はいるんだって思えてる。
その幸せの一つ一つをひとつもこぼさず、ゆっくりじっくり感じ取り、自分の中に大切にしまって積み重ねてきたこの半年で、いつのまにか「死にたい」が「死ななくてもいい」に変わり、「生きてもいい」に変わり、「生きたい」になろうとしている。

こんなふうな自分と再会できたのは、専ら周りのおかげだ
理解をしようと寄り添おうとしてくれて、肯定してくれて、優しく、大きく、深く、私を大切にしてくれるみんなのおかげだ

日常は、あたりまえではない。
生きることは、怖くない。
私が私でいることは、罪じゃない。

そんなふうに思わせてくれる環境と人間に出会えて、本当によかった
頑張って、もがいて、生き続けてみてよかった


私には一つ、目標ができた。
時間をかけても絶対達成して、母の心から喜ぶ顔が見たい。
元気を取り戻した今は、生きていてくれることが当たり前ではない、たった1人の親のために私の能力と時間を使いたい
ちゃんと、今までの数え切れない感謝を行動で返したい。

沢山チャージしたエネルギーを、今度は大切な人たちだけに還元していくのだ、

今が私の頑張りどき。

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