死を提供するという『やさしさ』

こんにちは。

わたしは、無償の愛というものがよくわかりません。
生まれつき重い内臓疾患を持っていたことに対して、親はよく尽くしてくれたと思います。
でも、親子という、もっと単純な関係に於いて、わたしの心は空っぽです。

今はその話はしません。

したいのは、についての話です。
わたしの母は、癌で他界しました。
告知から約半年という短い闘病期間でしたが、家庭内はめちゃくちゃになりました。

わたしは、自分の意思で自由に体を動かすことができないことのストレスをリアルに知っています。
手術や検査の後に幾度となくそういう経験をしてきたからです。
天井や蛍光灯やカーテンレールばかりを眺めながら、点滴やら尿道カテーテルやらドレーンやモニターのコードにまみれながら、痛みや苦しさや孤独や様々な不快感を抱えながらベッドの上で過ごす生活。
ほんの些細なことでもナースコールを押さなければならないので、徐々に『いいや』が増えていきます。
快復に向かうまでの数日から数週間の辛抱だと思うから耐えられるものですが、終わりが見えない、あるいは、死に向かっていく過程のそれだったら、どうでしょうか。

母の主治医は、告知後から、治療を受けるか否かは、状況が変わる度、丁寧に意思確認をしてくれる方でした。
無理強いはせず、あくまで本人に委ねてくれるスタンスでしたが、一方で、緩和ケアへの移行は、余命3か月以下の診断が無ければ不可というのが病院の方針でした。
これについては、わたしは直接交渉したわけではなく父に任せていた部分ですが、何度か申し入れてもらっても変わりませんでした。

結局、母は治療を受けながらどんどんボロボロになっていって、人としての尊厳というものをどんどん失っていきました。
わたしはずっと、『早く死なせてやればいいのに』と思い続けていました。
でも、もう母の肉体が限界に達した頃に、それまでの治療の成果が劇的に現れた報告を受けた時、父や兄は更なる治療の継続を望むような態度を示しました。
母は、「もう死なせてください」と泣きました。

わたしは、無償の愛というものがよくわかりません。
父は、どんなに苦しくても、母に少しでも長く生きてくれることを望んでいました。
わたしは「それはあなたが安心したいだけで母の為ではない」と言ったことがあります。
わたしは、子供の頃から、母に対して多大なストレスを抱え続けていました。
でも、だからと言って、母の病気がわかってから、『早く死なせてやればいいのに』とは思っても『早く死ねばいいのに』と思ったことは無いのです。
わたしの中にあった感情は非常に複雑で、未だに自分自身、うまく言葉にすることができません。
ただ一つ確かなのは、尊厳を失っていく母の姿に、似たような経験を持つ者として感情移入し、相当に苦しい思いをしたということです。


さて、耐え難い苦痛を抱える人間に対する『やさしさ』とは、何でしょうか。
本人が、それを跳ね除け、強く生きていきたいと望むなら、その手助けをする。
本人が、その苦痛からの解放を望むなら、死を提供してやることも『やさしさ』だと、わたしは思っています。

緩和ケアの拡充と積極的安楽死の法制化を同時に進めることが、今の日本には急務だと思います。
更に、リビング・ウィルに法的効力を持たせ、全ての人が用意しておくことを義務づけることも必要だと考えていますが、その話はまた別にしましょう。

ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。


Twitterをやっています。
@Chun__722

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?