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手帳

 「過度に華美でない靴下」とは「紺を基調とした、ワンポイント以上の柄のついていない膝下丈の靴下」のことを言うのだと知ったのは、並木の花も落ちきって、坂の麓から学堂までの一本道をすっかり枯茶色に染めてしまった頃のことで、四月の幼い雨に汚れた地面に立ってなお凜と穢れを知らないそぶりで笑っていたその人が都美子先輩でした。

 都美子先輩は、当時まだお転婆な一年生だった私の、はねっ返りの泥の乾いた足元をちらと見ると、先生方のように無粋な指摘をするわけでもなく、かといって他の先輩たちのように嫌味な物言いで射すくめるでもなく、ただ一言「だって桜も散ってしまったものね」とささやきました。
 私にはその小さなささやき一つで十分すぎるほどでした。つまりこの人は、私の足元の鮮やかすぎるのをやんわりと諫めたのだ、そうすべてを語らずとも直感できるだけの力が、私の方にではなく、都美子先輩の方に存在したのです。顔を真っ赤にして立ちすくむ私に先輩は足音もなく歩み寄って中腰になると、自分の靴下に刺繍されたワンポイントのチャームを示しました。左右で全く同じ高さにそろえられた紺の靴下の、それぞれ一か所だけ、薄い水色に刺繍されたそれを、細い人差指でなぞりながら、「ほら、うさぎさん」と言う先輩の声は透いていて、けれどもどこかに芯の強さを感じさせました。それから先輩は立ち上がると、校章の入った胸ポケットのあたりをトンと叩いて、さらりと踵を返しました。都美子先輩の胸ポケットには常に生徒手帳が入っている、と言うのは、新入生だった私たちの間でもすでに有名な話でした。私は寮に帰るや、薄桃色やチョコレート色の縞模様の入った靴下を部屋のごみ箱に放り込むと、その週末には外出許可を得て、先輩と同じものを買い求めに出かけました。

 都美子先輩は華やかでこそないけれども、それでもじゅうぶんに目を引く存在ではありましたから、学友間の噂話に上がることもしばしばありました。都美子先輩の名前が上がれば、教室の隅の机を囲んだ小サロンはたちまち華やぎ、幾人かの声が少しだけ高くなるのが常でした。そういうクローズドな世話話の場を離れても、生徒会に在籍していた都美子先輩は、全校集会や行事の度に全校生の前へと姿を現し、そのたび注目の的となりました。

 思うに、先輩には大きな武器が二つありました。一つは瑕疵の見えないこと、もう一つは衒いのないことです。たとえば先輩は、私の知る限りでは運動が若干苦手のようでした。九月のクラスマッチの際、先輩の受けたバレーボールは何度も、明後日の方向へと飛び出してゆきました。そのたび「ドンマイ」と声が飛び交い、先輩はちょっとバツが悪そうにして、おなかの前で控えめに手を合わせるのです。そうした場面は一回や二回では済みませんでした。けれども、そういう一切を瑕疵にしないのが先輩でした。普段の人徳や立ち振る舞いがそうさせるのでしょうか、先輩が決まりの悪そうな笑みをつくると、チームメイト達もたちまち顔をほころばせ、ねぎらいの言葉をかけるのです。それはやはり先輩の才のなせる業でした。もし私が同じだけの失敗をしたならば、そんなに穏便にはいかなかったはずです。じっさい、先輩たちのクラスは初戦で負けてしまいましたが、優勝したのがどこのクラスだったかなんて、少なくとも私たちの周りでは、誰も憶えてはいませんでした。

 都美子先輩はたいへん聡明で、学年順位が張り出される試験後の談話室で、先輩の名前を見ない日はありませんでした。二年生に上がり、先輩を追って生徒会へと入った私に、先輩はしばしば勉強を教えてくれました。先輩の教え方はとても丁寧で、それでいて不思議な勘も冴えていましたから、その白い手先が重要だと語った文言、やさしく角を手折った頁の例文と私は、遍く問題用紙の上で再会を果たすのでした。

 先輩が推薦入試の合格を決め、受験のための雑多なカリキュラムから一歩飛び出したころから、先輩に関するあまり好ましくない噂を耳にするようになりました。聞けば、先輩は隠れて学外の殿方と交際をなさっているそうです。聞けば、先輩は先生方にお金を払って、試験の問題を横流ししてもらっていたそうです。聞けば、先輩がこっそり煙草を吸っているところを見たという方があるそうです……。一切は先輩へのやっかみから来る、根も葉もない噂にすぎませんでした。もちろん、その頃の私はすでに、自身が先輩に肩入れしてしまっていることも、ひいき目に見てしまっていることも、十分自覚していました。ですがその上でやはり、あの日、靴下のうさぎに「さん」を付けて呼んだ先輩の唇が、安い煙草をくわえ、安い男に愛をささやくとは、にわかには信じ難い事でした。

 私は一度、ほんの一度だけ、たまりかねて先輩に尋ねたことがあります。先輩は悔しくないのですか。何も言い返さないのですか。下品な誤解を解かないままに、この園を発ってしまわれるのですか。
 すると先輩はやさしく微笑みをたたえたまま一言、こう言いました。人間と言うのは、そういうものなのよ。
 そういうもの、というのが噂話の事なのか、先輩自身の事なのか、判断を付けるのはあまりに難しく、私は次に用意した言葉をどこかへ置き忘れてしまいました。しばらくの沈黙の後、先輩はいつもと同じ仕草で、制服の胸ポケットをポンと叩きました。
「あなたにだけ見せてあげる。特別」
 それが手帳送りの儀式の事を言っているのだと気が付いたのは、それから一月も後の事でした。

 手帳送りと言うのは私たちの学校独自の風習で、それも、表ざたには致し難い、生徒達だけの秘密の伝統のようなものでした。聞いた話によれば、卒業式を終えた三年生たちは、講堂から教室に戻り、担任の先生がやってくるまでのわずかな時間で、互いの生徒手帳を回し読むのだそうです。もちろん、ただ読みまわすだけではありません。それぞれの生徒の手帳には、各人思うところのあった項目に独自の「改変」が加えられているのだそうです。たとえば頭髪検査で何度も指摘をされた生徒は、頭髪に関する規則の頁をビリビリに破り取ってしまったり、たとえばこっそり殿方との逢瀬を重ねていた生徒は、異性交遊に関する項目に「自由とする」と書き加えたりと、そういった具合です。
 それは陳腐な言い方をすれば、三年間、なんらかの抑圧に耐え、漠とした不満を抱えていた生徒たちの拙い抵抗であり、自由を勝ち取ったことを寿ぐ祝祭的な儀礼のようなものでありました。そこに大義や革命の意思は見えません。みなこの小さな遊びの中で不満を共有し、ある者は傷を舐め合い、ある者は自身の所在を確かめ、そうして短い青春の中に混じる毒が今後の人生において尾を引かぬよう、清算をするのです。
 私は、正直に明かしてしまえば、怯えていたように思います。都美子先輩がそういった有象無象の中に混じり、稚拙な儀式で私の憧れたすべてを褪せたものにしてしまうのではないかと、ちょっとだけ危惧したのです。

 卒業式の日、私はほとんど先輩と話すことが叶いませんでした。優秀だった先輩は、先生方やご学友や、父兄の方々との美しい挨拶を重ね、そうするうち、私の立ち尽くす場所から少しずつ、少しずつ遠ざかっていきました。先に講堂を出ることになった在校生の私は、故郷を発つ汽車よりホームを眺めるみたいに、何度も先輩の方を見やりました。すると、何度目だったでしょう、振り返った刹那、ふと先輩と目が合ったような気がしました。先輩はふと微笑むと、胸に手を当てて、一瞬、西日の差す窓の方を見やりました。校舎の、生徒会室のある方角でした。

 ホームルームの終わるのが早いか、私は荷物をひっつかんで教室を飛び出すと、生徒会室へと走りこみました。部屋には誰もいませんでした。ただ並んだ机の、沈みかけた日の、ぎりぎり当たらない影のところに、小さな、薄い、四角い、藍色の手帳が置かれているのを見つけました。それは先輩の手帳に違いありませんでした。私は息を整えながらゆっくりと机へ歩み寄り、その新品のような手帳をそっと持ち上げて開きました。

 唾をのむ音が聞こえました。気のせいではありません。それは私の出した音でした。
手帳の「改変」は、ほぼ全頁にちりばめられていました。先輩らしく、定規を使って引いたみたいなまっすぐな線。黒いボールペンの線で、いくつかの文言が、丹念に、しらみつぶしに消されています。
 私はそこにあったはずの文言を、指でなぞりながら、一つずつ口にします。
 最初に死んでいたのは「特別な場合を除き」という一文でした。
 次に死んでいたのは「やむにやまれぬ事情が無い限り」という文でした。
 「次の場合は例外的に」から始まる項目は、すべてが丁寧に塗りつぶされていました。
 私はもはや、どこに立っているのかもわからないまま、ひたすら手帳の小さな文字を追いました。背中にじっとりとつめたい汗がにじむのを感じました。先輩の目指そうとしたものが何なのか、理想としたものが何だったのか、手を伸ばせば届いたかもしれないところにいたのが果たして誰だったのか、あの日先輩が私に放った「特別」が何を意味するのか、すべてが分からなくなってしまって、手帳をそっと机に置き、もう一度手に取り、それをスカートのポケットに落としました。
 不意にチャイムが鳴って、窓の下を見ると、道を歩く生徒が数人、つぼみを付けたばかりの並木を見上げています。春はもうすぐそこまで来ているようです。


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