「信教の自由」は印籠じゃない。必要なのは「公助」。宗教2世の横道准教授に聞く
特定の信仰を持つ親の下で育った「宗教2世」。旧統一教会のほかの新興宗教でも問題が指摘されています。教えを受け入れられなくても子どもの頃は逃げ出せず、抜け出した後も社会にうまく適応できないケースがあるそうです。自身も当事者で、自助グループを主宰する京都府立大の横道誠准教授(43)は、「問題を可視化することが重要」と強調します。(栾暁雨)
「信教の自由」はもちろん尊重されるべきです。でも、水戸黄門の印籠のようにひれ伏さなくてはいけない言葉になっているのはおかしい。「信教の自由」を盾に、現実に生じている被害や悪影響から目を背けていないでしょうか。
「家畜化」される子どもたち
私の親が入っていた新興宗教は、子どもが親の意向に沿わないなら肉体的暴力で矯正すべきとの考え方でした。ずっと家が地獄で、学校でも居場所がない。2世は幼い頃から、家と外の常識の使い分けを求められます。常に何かにうそをつきながら生きる精神的な二重生活を強いられる。私自身、今もこの経験や記憶に苦しめられています。中には自死を選ぶ人もいます。
子どもの場合は宗教リテラシーが育まれないまま、親の言いなりに「家畜化」され、洗脳されていることにも気付けない。反抗する気力も奪われる。
親と同様、子どもにも信教の自由があります。日本には子どもは親の所有物である考えが根強く残っていますが、同一の信仰を強いられる家族の形は現代社会にそぐわない。子どもの人権に関わります。本来は成人後に自分の意思で宗教を選べるようにすべきです。
2年ほど前から当事者が思いを語り合う自助グループを開いています。「ここにたどり着くまで、どこに行っても話を聞いてもらえなかった」と言う人は多い。行政窓口やホットラインに相談しても「宗教問題はノータッチ」「自分の家で解決して」と突き放される。親が進んで入信したなら口を出せないということなのか。2世は放置された存在だったといえます。
家庭からの自立 社会がサポートを
安倍氏の事件後、ツイッターでは「#宗教2世に信教の自由を」というハッシュタグ付きの投稿が広がりました。SNSは当事者が緩やかにつながり共感できるツールですが、裏を返せばそこにしか救いを見いだせない人が多いということでもあります。思いを吐き出すSNSや当事者のグループはあくまでも「自助」と「共助」。圧倒的に不足しているのは「公助」です。
親の多額の献金で困窮したり、高等教育が受けられなかったり職業選択が制限されたり…。経済力が乏しい上、精神的に不安定な場合も多い2世が家庭から自立するためには社会のサポートが欠かせません。宗教の知識がある相談員がいる公的な窓口の設置や、身を寄せられる場所、集まれる機会の提供が必要です。
一方で、宗教に依存する親の方も心が壊れかけていて、外からの声が届かないことがある。虐待やネグレクトと同じように、宗教でつまづいたときのセーフティーネットの整備を議論する時期に来ています。
個人的に、宗教にはカルト性を持ちかねない側面があると考えています。例えば伝統宗教でも、「天国」や「地獄」という概念に信者が縛られることがある。度合いは小さくても、脅しや恐怖で支配することにつながりかねない。逆に、たとえカルトを信仰しても社会と折り合いを付けられたら問題はありません。ですが狂信的になって、信仰の強制や日常生活を破壊するような不利益はあってはなりません。