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【中国山地の歴史⑬】中国山地の歴史地図をつくってみた

こんにちは、中国山地の歴史を調べる人、宍戸です。
 中国山地は過疎発祥の地とされており、過疎化は1960年代以降に始まったとされています。
 では、過疎化が始まる前の中国山地はどのような状態だったのか。それを視覚的にわかりやすくするため、主に昭和1ケタ台に制作された地図(明治の地図も一部持っていますが、今回は昭和の地図)をつなぎ合わせて中国山地の地図を作成してみました。

 上記が作成した地図です。作り方を簡単に書くと「昭和1ケタ台に制作された地図を用意」→「日本測地系を世界測地系に変換」→「GISソフトにジオリファレンス」という流れで、単純作業なのですが、地図の量が多いため、地味に時間がかかって疲れました(笑)
 さっそく、この地図を使っていろいろ調べてみたいと思います。

小径がつなぐ中国山地の緻密な道路ネットワーク

 今回、この地図に関して注目したいことは、現在は森林に埋もれてしまっている箇所に「小径」と呼ばれる、道幅1m未満の細い道がたくさんあるということです。 

島根県の飯南町と美郷町の間

 例えば下の空中写真は、島根県の飯南町と美郷町の境界付近の現状です。

現在の空中写真

 現状では森林に覆われて道があるようには見えませんが、昭和7年の地図をみると、「---------」という点線で表現されている「小径」があることがわかります。山の中で複数の道路が交差しています。

昭和7年の地図
昭和7年の地図の凡例

 空中写真と昭和7年の地図を重ねたのが下図です。

現在の空中写真と昭和7年の地図を重ねた

 このような細い道「小径」は、私が住んでいる奥出雲にもたくさん書き込まれておりますが、現在では使われていない道もとても多く、加えて道があったことさえ忘れられていることも多いです。

島根県浜田市美又地区

 島根県浜田市の美又地区に2024年3月にオープンし、私もクラウドファンディングで支援させていただいた「美又共存同栄ハウス」の周辺でも同様に現状と比較してみました。

現在の空中写真
昭和7年の地図
現在の空中写真と昭和7年の地図を重ねた

 美又共存同栄ハウスは昭和12年の完成のようなので、昭和7年の地図の美又共存同栄ハウスの位置には、まだ特別な建物があるようには見受けられません。そして、やはり小径がたくさん書かれています。

島根県邑南町阿須那

邑南町(旧羽須美村)阿須那 現在と橋の位置が異なる

中国山地の道の単純化

 人々が歩いて移動していた時代は、中国山地全体にこのような道がたくさんあったと言えます。現在ではどん詰まりだと思われている集落でも、よくみると、当時はその先に小径が伸びていたことも多く、小径による緻密なネットワークの経路上に集落があり、どん詰まりの集落は思ったより少ないことがわかります。

 一方で、現在は使われていない小径も多い理由は、自動車の普及と無関係ではないでしょう。
 自動車の普及により、自動車が通行できる道路を整備する必要が生じ、どの道を優先的に投資するかという優先順位に従って整備され、人々が日常の移動を自動車に依存するようになるにつれて、整備対象に選ばれなかった小径は忘れられていったということだと考えます。その過程で複雑だった中国山地の道路ネットワークは単純化し、あたかも「どん詰まり」に見える集落も増加してしまったのでしょう。これは、中国山地に限らず、日本全体の中山間地域も同様だと考えます。しかし、あたかも「どん詰まり」であるかのように見えてしまうのは、自動車を前提にしているためで、徒歩を前提にした視点で見ると、異なる集落像が見えてくるということではないかと思います。
 今となっては、再びこの小逕を再利用することは難しいかもしれませんが、あえて歩いてみると意外と新しい発見があるかもしれないと思っています。

昔の中国山地を3D化してみる

 ついでに、古地図に標高データを重ねて立体的にしてみました。
これは現在の島根県美郷町粕淵付近です。この時点では、昭和の大合併前ですので、複数の村が書いてありますし、三江線も完成する前ですので、三江線開通以前の様子がよくわかります。

 この地図を使えば、昔の中国山地の情景がありありとわか・・・・らないかもしれません(笑)が、とりあえず私は、地図を眺めながらニヤニヤしているところです。
 




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