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【中国山地の歴史⑥】中国山地に暮らしの場を生み出した技術者

 こんにちは。中国山地編集舎メンバーの宍戸です。以前書かせていただいた、「【中国山地の歴史③】鉄穴流しが生み出した中国山地の暮らし」では、鉄穴流しは農地の生成を通じて、暮らしの場である集落を生み出す原動力であったと書きました。今回の記事では「中国山地で鉄穴流しを行って砂鉄を採取し、その跡地に水田をつくった」ということについて、もう少し掘り下げて書いてみたいと思います。

鉄穴流しと流水客土

 まず、砂鉄採取跡地の水田化は、どのようなプロセスで行われたのでしょうか。松尾充晶先生は、「切り崩した跡地ですぐに耕作ができるわけではない。鉄穴流しの跡地は足の踏み場もないほどの石で埋め尽くされるのが普通だ。これは、母岩中に風化が弱い核石(コアストーン)が多量に含まれているためで、切羽を崩した際に転がり落ちる核石は砂鉄採取の妨げとならないよう、後方に捨てられることになる。稼業が続いて切羽が移動していくと、その跡には大量の核石が残される。そのような荒れ地を水田化するには、別の場所(より高所)で操業している鉄穴流しで排出した土砂を、水路で流し込んで、水平に造成すればよい。土砂は水が運び敷きならしてくれるため、わずかな労力で済む。排砂処理と新田開発の一挙両得を実現する方法であり、その技術者は新田師と呼ばれ活躍した。このように土砂を入れて作られた水田を「流し込み田」と呼び、鉄穴流し跡地に広大な棚田を出現させることになった。」としています。そして、窪田蔵郎先生は「砂鉄を掘って水洗作業をすると、流れた土砂が沈殿して粘土質の平地ができる」としています。これは、風化した花崗岩の土砂を水流を使って堆積させることで、粒度の違いに伴う沈降速度の違いにより、細かい粒子が表面に集積したものと考えられます。つまり、鉄穴流しに使った水路をそのまま利用して、砂鉄採掘跡地より上流の土砂を流し込むことで、粘土質の表土をつくっていたわけで、このような手法は現代では「流水客土」と言われています。

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写真:鉄穴流しの土砂を流し込んだと考えられる水田(筆者撮影)

 このような手法はどこでも行えたわけではありません。吉良芳夫先生は、この「流水客土」が日本では砂鉄採取の盛んな山陰の一局部にのみ実施されてきた理由について、「適当な勾配と豊富な流量が必要条件」であり、多量の雪どけ水が利用できることや、花崗岩の沈降速度が比較的早く、分離し易い粒子が多いことなどを挙げています。また、土砂の運搬について「水力利用の場合には、車両又はトロを使用する時に要する運搬経費金額を節約する事が出来」ることや、「砂鉄採集と農業土木工事を総合的に勘案して行くならばより経済的に工事を進める事が出来」ることなど、その合理性について述べています。そして、以前にも書きましたが、奥出雲に残る明治17年(1884)の文書には、「(鉄穴流しの)其坑区ヲ漸次開墾シテ田園ト為スアリ、或ハ泥濘ナル深田ヲ埋メテ良田ト為スアリ、其事タル実ニ一挙両得ノ良栄二シテ郡民ノ幸福是ヨリ大ナルハナシ」とあります。たしかに、砂鉄を採取したうえに、砂鉄採取に使った水路などのインフラをそのまま利用して砂鉄採取跡地に土砂を流し込み、少ない労力で農地にできたら、あるいは生産性の悪い水田を改良できたら、非常に魅力的な手法に思えることでしょう。

鉄穴流しによる水田開発の起源

 それでは、このような砂鉄の採取と水田開発を結びつける知識は、いつごろから存在していたのでしょうか。例えば江戸時代初期の奥出雲の史料を見ると、「鉄穴内」などの砂鉄採取に関連した地名がつく水田が多数ありますので、少なくとも江戸時代の前半には既に砂鉄採取跡地が水田化されていると考えられます。しかし、これだけでは砂鉄採取跡地の水田化は、結果的にそうなっただけなのか、初めから意図的して行われてきたのかはわからないと言わざるをえません。

 意図的に行われていることが確認できる古い事例の一つが、卜藏孫三郎の新田開発の事例です。奥出雲の鉄師(たたら製鉄の経営者)である卜藏家に元禄9年(1696)に生まれた卜藏孫三郎は、能義郡荒島村(現在の安来市荒島町)に進出し、享保7年(1722)から、鉄穴流しの技術を応用して目白池を埋め立て、新田を開発したとされています。そして、古文書に「中土手より下不残埋未六月より申年迄に地平し不残相仕舞土手の上の池へ泥舟を乗込泥掻にて泥を上け地平しの上へ廣立候て稲植付候處殊外出來立宜敷(中土手から下までは残らず埋まり、未(1726)6月から甲(1729)年までに地ならしを残らず終え、土手の上の池へ泥舟に乗り込み、泥掻きにて泥を揚げて、地ならしした上に広げてから稲を植えつけたところ、ことのほかできがよろしい)」とあるように、湖底の泥を客土したことで、稲の出来も良いと記しています。この事例について、佐藤忠雄先生、吉川篤美先生が「このころ、すでに仁多地方(卜藏孫三郎の出身地)では廃土を谷部に流下堆積して農地の造成をした事例はあったものと思われる」としているように、この手法は、ある日突然思いついたというより、鉄穴流しが盛んな地域では既にある程度は慣習的に行われていたと理解する方が無理がないと考えています。ただし、目白池を埋め立てようとしたのは実は卜藏孫三郎が初めてではなく、先に下意東村の助三郎というものが目白池を埋め立てようとしたけれど、水が深くて途中でやめてしまったとありますので、技術的な理由か資金的な理由かはわかりませんが、少なくとも、誰にでもできることではなかったと思われます。卜藏孫三郎は、たたら製鉄の経営者の生まれで、砂鉄採掘技術と製鉄業で得た資金の両方があったことが、水田開発を成功させた背景にあると思われます。さらに、川津郷土誌によると松江市の菅田町にかつて「伊豆屋新田」と呼ばれる水田があったようです。史料がないので詳細は不明なようですが、享保5年(1720)か6年(1721)ごろからの開発を想定し、「伊豆屋」もかつて、奥出雲の鉄師の一族だったことから、卜藏新田と同じ技術で開発された可能性も考えられています。

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写真:卜藏孫三郎の顕彰碑(筆者撮影)

 また、より直接的に砂鉄採取と水田の関係について言及している史料としては、奥出雲に残る、寛政6年(1794)の野土たたらに関する文書に、「元来野土鑪之儀ハ、新田■(土へんに養)備ニ候得ハ(もともと野土たたらは、新田を養うためのもの)」と記されています。そして、現在の野土たたら跡地には、たたら製鉄によって水田ができたことを顕彰する、明和7年(1770)の石碑が建立されており、「高尾村野土庄往古終無人住(中略)此地大吹鑪祓数峰之山沙汰以洒於荒野漸平定終為一郷公田可謂創開之功大也(高尾村の野土集落はかつて無人だったが・・・この地で大いにたたら製鉄を行い、数峰の山を鉄穴流しで崩して荒野を平定し、一郷の公田をひらいた功績は大きい)」と記されているので、無人の地に新田をつくるために、たたら製鉄を操業したことがわかります。

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写真:鉄穴流しによる新田開発の歴史を刻む石碑(筆者撮影)

 このように考えていくと、砂鉄採取跡地を意図的に水田化する知識は、18世紀の前半以前にさかのぼる可能性が浮かんできます。とはいえ、砂鉄採取の歴史の初めから水田化が意図的に行われてきたとは考えられません。
砂鉄採取の起源については、【中国山地の歴史③】でも書きましたが、古くは砂鉄を含む土砂を掘って水際まで運搬して淘洗していたとされています。河瀬正利先生も「鉄穴流しの方法が考案された契機は、おそらくは自然淘汰によって川底や谷川に堆積した砂鉄を採取することからであったとおもわれるが、そのはじまりは、『日本山海名物図会』の金山淘汰の図にあるように金の採取法であった「ねこた流し」のような方法によったと考えられる。「ねこた流し(ねこ流し)」法は、山で採掘した金鉱石を石臼や唐臼によって粉砕し、この粉砕された土砂交じりの鉱粉を「ねこた流し」にかけ、それによって採取された鉱粉をさらに淘汰板で淘汰して金を精選する方法である。」としているように、黎明期は採掘地まで水を引いてはいなかったようで、水路がないので、当然ですが流水客土もできなかったと考えられます。そのため、ごく初期から跡地を畑として利用していた可能性は考えられますが、水田の造成が本格化するのは、砂鉄の採掘面まで水路を構築する技術が発達して以降であろうことは容易に想像できます。それでは、採掘面まで水路をひくようになったのはいつかというと、土井作治先生は慶長4年(1599)の奥出雲の横田地区の鉄穴に関する文書から、鉄穴稼業権は場所、用水、施設等を含んでいると推定しており、飯田賢一先生も「古代・中世における砂鉄の採取は、最も原始的な野天掘りの一つ=鉄穴掘りが唯一の方法であったが、この方法は出雲地方を中心に慶長年間(1600年ころ)には流し掘り法に代えられた。」としていますので、少なくとも16世紀末には既に水路を採掘地に導くようになっていたと理解してもよいものと思います。そうすると、砂鉄採取跡地を意図的に水田化する知識が発達したのは、概ね17世紀が中心ということになるのかもしれません。

水田開発の主客の転換

 一方で、この水田化の知識の発達を促した可能性があるのが、下流との関係です。鉄穴流しは、風化花崗岩の山を切り崩して得た砂を水流に流し、重い鉄分を底に留め、軽い砂を流し去ることで砂鉄を選別する技術であることから、砂留をしない限り、不要な砂は河川の下流まで流れていきます。そのため、島根県の斐伊川が天井川になり、あるいは出雲平野が今日のように広い平野になったのは、鉄穴流しの影響が大きいと言われています。下流部の広がった平野では新田開発が行われるとともに、綿の栽培に適した水はけのよい砂地が生まれたことから、新たな特産品として木綿が登場し松江藩の重要な産業に成長するなど、利益ももたらしましたが、土砂が堆積することで下流の農民ともめ事が発生することもありました。

 この結果、宮本常一先生は、鉄穴の砂について「谷間などに石垣を築き、その内側に砂をためる。そして石垣の内が砂でいっぱいになると、その内側にまた石垣を築いて砂をためてゆく。砂がたまって平になったところは水田にする。」ようになったとし、「じつは公害防止の対策が新しい水田を生み出したのである。」と、下流への土砂の流出回避手段として砂鉄採取跡地に土砂を留め水田化する手法が発達したとしています。ちなみに、風化の弱い土地で鉄穴流しを行うと、石が多数出土しますので、その石を利用して石積みをつくることで水田を造成したと考えられます。一方で、奥出雲のように風化が進んでいるため、石の出土が少ない場所では、石積みをつくることができませんので、地元の方のお話によると木の板などで土砂を溜めたようです。奥出雲は圃場整備前から土羽の棚田が多いのですが、水田が石積みか土羽かは地質的な影響もあるものと考えらえます。

 以上を踏まえると、砂鉄採取跡地の水田化は、初めはたまたまだったけれど、後に意図的になったというように、段階的に発達してきたと理解すべきではないかと考えられます。そして、たたら製鉄の衰退とともに、鉄穴流しも衰退していきますが、吉良芳夫先生が「流し込み開田工事は初めカンナ流シにより放流された土砂が渓谷や低窪地に沈殿した後地を耕地として利用したものが、後には初めから開拓を目標として行はれる様になつたもとの考へられる。」としているように、当初は鉄穴流しに付随して行っていた水田化が、やがて手段と目的が入れ替わり、たたら製鉄の衰退後は水田をつくるために山を切り崩すようになります。加えて、客土のためだけにこの技術を用いるのであれば、水量も比較的少量で済み、雪解け水に頼らなくてもよいぶん時間的な制約も少なくなるため、中国山地以外での水田開発にも応用されていきます。

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写真:鉄穴流しのかつての採掘面と水路(筆者撮影)

 広島県史にれば、「砂鉄掘りは時代の流れに押されてただ消え去っていったのではなく、砂鉄掘りのエネルギーは山間の水田改造をはたし、河川改修や用水池の築造にも大きな効果をあげていった。」とし、「明治末年から大正時代にかけては、九州の山間地方への出稼ぎも」少なくなく、「宮崎県の米良・椎葉などの山中にも多くの石垣畦の分布を見るが、その石垣の多くを広島の職人がきて築いた」としています。また、「鹿児島県大口市木地山には広島から来た黒鍬師の定住をみている。明治の終わりまで一枚の水田もなかったという。それが、広島のものが来て畑の畦を石垣にし、谷から水をひいて、少しずつ水田にきりかえ、今日では完全な水田集落になっている。」ともしています。さらに、鳥取県の江府町誌によると、明治の初めに宮市の如来原で新田開発が計画され、「明治13年6月、如来原の開墾は開始された。開墾は出雲国仁多郡から来た測量技師と開墾人夫の一団によって行われた。」とし、徳安浩明先生は「鉄穴流しの盛行した島根県仁多郡から宮市原へ来村した測量技師と人夫の一団は、この黒鍬師たちであったとみるべきであろう」とするなど、各地で新田開発に携わったようです。もう一つ付け加えるなら、新田開発だけでなく、道路や運動場の造成にも応用されました。例えば、奥出雲の亀嵩小学校や馬木小学校の校庭は、昭和15年に学校の裏山を鉄穴流しの技術で切り崩して土砂を流し込むことで造成あるいは拡張されたと言われています。

水田開発を行った技術者

 最後に砂鉄を採り水田をつくった技術者がどのように呼ばれてきたかご紹介したいと思います。実は、砂鉄を採り水田をつくった技術者は、様々な名前で呼ばれてきました。既述したなかでも、「新田師」や「黒鍬師」という言葉がでてきますし、他にも、窪田蔵郎先生は「鉄穴師と呼ばれている」、亀嵩村誌では「砂鉄採取に従事する者は老若を問わず鉄穴爺かんなじいといった。」、さらに奥出雲の古文書では「新田匠者」という言葉も出てくるなど、一定していません。これらはどういう対応関係にあるのでしょうか。杉本寿先生によると、「新田師は、カンナ師の一部に含まれるものであり、カンナ師の山崩工程内の流送水路の工作者ともいうべきものである。また啓開師とも俗称せられ、特殊測量学(Level 工作作業)の技術を習得しているものでなくてはならなかった。いわば、水準灌漑師とも称せられるもので山地の高低起伏を応用して巧みに水路を造ってゆき、堀流作業をもつて多くの新田を造成していつたのでこの名がうまれた所以である。」としており、新田師は鉄穴師の一部に含まれるとしています。また、奥出雲でみられる「鉄穴爺」や「新田匠者」も、「鉄穴爺」は「新田師」に、「新田匠者」は「新田師」に対応した派生語と捉えてよいのではないかと思います。出雲弁でしゃべると「鉄穴師」と「鉄穴爺」は発音上の違いは無いに等しいようにも思えます。

 一方で「黒鍬師」という呼び名もあります。宮本常一先生は「砂鉄精錬には砂鉄を掘る者・たたらで働く鋳物師・鍛冶屋で働く鍛冶・炭焼・荷持ちなど多くの技術者や労働者を必要とするが、砂鉄掘りの仲間は職業がら土木工事にたくみで、砂鉄を掘らないときは開拓事業にやとわれて方々をわたり歩いたもので、普通に黒鍬師といわれた」としていますし、広瀬伸先生も宮本常一先生を踏まえて「黒鍬師」の呼び名を踏襲しています。ところが、この呼び名は少なくとも奥出雲の文書には登場するのを見たことがありません。 
 おそらく黒鍬師は、広瀬伸先生が「地元にいればたんなる農家のおじさんだったと思います。」としてるように、地元では一般的な呼び名ではなく、対外的には黒鍬師と呼ばれていたのだと、今のところ解釈しています。

※ちなみに、表紙になっている水田の中にある塚は、かつてこの周囲で、たたら製鉄が操業されていた際に、製鉄の神様である金屋子神が祀られていた場所で、台座だけになっても壊されることなく今も残されているものです。

(1)島根県立古代出雲歴史博物館『たたら―鉄の国出雲の実像―』.2019
(2)窪田蔵郎『鉄から読む日本の歴史』講談社学術文庫.2003
(3)吉良芳夫「水力を利用する農業土木工事」農業土木研究.1951
(4)横田町誌編纂委員会『横田町誌』横田町.1968
(5)卜藏孫三郎顕彰の会『顕彰資料集卜藏孫三郎』.2000
(6)佐藤忠雄、吉川篤美「卜蔵孫三郎の荒島新田の開発」農業土木学会誌.1982
(7)川津郷土誌編修委員会『川津郷土誌』松江市川津公民館.1982
(8)八川村史編纂委員会『八川村史』.1959
(9)仁多町教育委員会『発掘調査報告書野土たたら跡」.1992
(10)河瀬正利『たたら吹製鉄の技術と構造の考古学的研究』渓水社.1995
(11)土井作治「松江藩の鉄山制作と製鉄技術」『日本製鉄史論集』たたら研究会.1983
(12)飯田賢一『日本鉄鋼技術史論』三一書房.1973
(13)宮本常一『宮本常一著作集44 民衆文化と造形』未来社.2003
(14)広島県『広島県史(民俗編)』.1978
(15)江府町史編纂委員会『江府町史』.1975
(16)徳安浩明「鉄山経営者による耕地開発と集落形成」歴史地理学.1996
(17)亀嵩村誌編纂委員会『亀嵩村誌』亀嵩村誌編纂委員会.1967
(18)杉本寿「資本主義の発展におけるタタラ企業の役割」福井大学学芸学部紀要第3部.1957
(19)宮本常一『民衆の知恵を訪ねて』未来社.2003
(20)広瀬伸『黒鍬さんがゆくー生成の技術論』風媒社.2019
(21)広瀬伸「農業土木技術者「黒鍬」とは何者か?」水の文化66.2020

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