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【中国山地の歴史③】鉄穴流しが生み出した中国山地の暮らし


 こんにちは。中国山地編集舎メンバーの宍戸です。前回の【中国山地の歴史】では「たたら製鉄」の概要について記させていただきました。今回の記事からは「たたら製鉄」に関連した生業について、何回かに分けて書いていきたいと思います。まずは、たたら製鉄の原材料の砂鉄を採取する技術「鉄穴流し(かんなながし)」について書かせていただきます。
 なぜ砂鉄の採取だけに特化して記事を書くのか、とお思いでしょうか?実は、この「鉄穴流し」が中国山地に与えた影響はとても大きく、たたら製鉄と分けて独立して記事にするだけの価値があると考えています。たたら製鉄と中国山地の関係を考えていくうえで欠かすことができない要素なのです。

●鉄穴流しとは? 
 中国山地を構成する主要な地質の一つが花崗岩(花崗閃緑岩も広義の花崗岩に含む)で、砂鉄はこの花崗岩に含まれています。そして、岩石が長い年月のあいだに、日射・空気・水・生物などにさらされてぼろぼろになっていく現象のことを「風化」というのですが、花崗岩は、一般的な岩石が地表近くから風化していくのと異なり、地中深くまで風化する「深層風化」と呼ばれる現象が発生します。古代の砂鉄採取は、この深層風化した花崗岩地帯を流れる河川において、花崗岩の成分のうち比重の高い砂鉄が河床に自然堆積したものを採取していたと考えられています。例えば、奈良時代の天平5年(733)に完成した出雲国風土記には、砂鉄を採取したと思われる「鉄あり」という表記は、川の項目に登場します。その後、鉄の生産量が増えるとともに、自然堆積した砂鉄だけでは足りなくなり、風化した花崗岩の山を人為的に採掘して得た土砂を流水にさらし、比重を利用して砂鉄を採取する「鉄穴流し」と呼ばれる技術が発達したと考えられています。


 鉄穴流しを操業するうえで重要な技術の一つが水路構築で、山奥の河川やため池などを水源として、等高線に沿ってできるだけ標高を維持しながら水路を築き、採掘面まで水を運びました。鉄穴流しは秋から春までの冬の仕事で、百姓が春から秋にかけての農業が終わってから従事することも多かったのですが、積雪もある中国山地の地理的条件を活かし、鉄穴流しには採掘面後背地の流域に降った雪も重要な水資源として利用したと考えられています。鉄穴流しに使用した水路は、後述するように今では農地の灌漑施設として再利用されているものもありますし、雪解け水を主に使っていたために春から秋に十分な水量が得られないと考えられるような場所では、現在では使われていないものもあります。こうした水路は山の尾根に築かれることも多く、これは水の位置をできるだだけ高く維持した方がより多くの範囲で採掘できるという点で合理的だったためと考えられますが、例えば奥出雲の山では、今でも尾根に上がると水路の痕跡を認めることができる場所が多くあります。奥出雲の山々に毛細血管のように張り巡らされた水路を見ると、高度な計画性や高い土木技術を感じずにはいられません。


 ところで、なぜ「鉄穴」と言うのでしょうか?文政8年(1825)に成立した広島藩の地誌である「芸藩通史」によると「鉄穴諸村にあり、是は金銀鉱山とは違い深穴には生ぜず多く岡阜に生ず故に深く穴掘るに及ばず、昔は土鉄を採り、水際に持出して淘洗し、故にその鉄を採りしあと、穴にもなりしなり鉄穴と名づけたるも今は山を虧崩し水を引いて流しくる故に穴にはならず、かく便宜にはなりたれども岡も平地とかはる処もあり」とあります。また、向井義郎先生は「むかしは穴を掘る竪穴堀や坑内堀が行われ、『今昔物語』に出てくる美作英多郡の鉄堀鉄穴の記事等はこの方法をさすものと思われ、鉄穴という名称もかかる方法で、採掘した跡が穴になったことから生じたものと考えられる。」としています。つまり「鉄穴」は、平安時代には既に存在していた言葉で、かつて砂鉄を含む土砂を掘った跡が穴になったことに由来し、その後、山を崩して得た土砂を引いてきた水に流す、いわゆる「鉄穴流し」の技術が発達したために、穴にはならなくなったものの、引き続き「鉄穴」の言葉が使い続けられたということがわかります。そして、多くの場合、風化した花崗岩の中に含まれる砂鉄の量は1%未満にすぎないことから、十分な量の砂鉄を得るため、大規模に山が削られてきました。

●鉄穴流しによって拡大した中国山地の暮らしの場
 一方で、砂鉄を採取した「鉄穴」の跡地を、山がちで農地の乏しかった中国山地の人々は貴重な土地とみなし、農地として利用してきました。このことを史料で確認してみましょう。奥出雲に残る明治17年(1884)の文書には、「(鉄穴流しの)其坑区ヲ漸次開墾シテ田園ト為スアリ、或ハ泥濘ナル深田ヲ埋メテ良田ト為スアリ、其事タル実ニ一挙両得ノ良栄二シテ郡民ノ幸福是ヨリ大ナルハナシ」とあります。つまり、大規模に削られた砂鉄採取跡地を農地にし、さらに砂鉄採取後の土砂で、ぬかるんだ湿田(出雲弁では「深田(フケダ)」と言います)を埋め生産性の良い乾田に改良していたことがわかります。


 このような鉄穴流しの跡地は、鉄穴流しのために築いた水路の再利用によって、可能な限り水田化しようとしてきたと考えられますが、赤木祥彦先生が「鉄穴跡地を水田化する場合、まず畑とし、さらに水田にする場合がしばしばみられる」としているように、水田になる前に、まず畑として利用されました。さらに、鉄穴流し跡地の畑は、田中豊治先生が「中国高原一帯の鉄山地帯では,鉄山の中に林間切畑があり,耕牧交替の土地利用および鉄穴流し跡の畑耕作も行われている。それらが,近世文書の畑の中では「切畑」として総称され」ているとしているように、江戸時代には「切畑」として把握されていたようです。

 「切畑」で栽培していた作物については、例えば奥出雲に残る享和3年(1801)の文書では、「蕎麦、粟、くまこ等」の雑穀と記載されています。「くまこ」は粟のことを意味するので、この文書では「粟」が重複して記載されているように見えるのですが、「くまこ」は特にうるちあわのことを言うとされていますので、おそらく文書に見える「粟」はもちあわを指しているのだろうと推測しています。一方で、「蕎麦、粟、くまこ」だけでなく、他にもいろいろと栽培していたことも当然想定されます。


 ともあれ、このようにしてしばらく畑として使用した後は、十分な量の水が得られれば水田に変え、得られなければ引き続き畑として利用されたと考えられます。また、農地の土づくりについては、前述の明治17年(1884)の文書には、「薪炭鉄鉱運送ノ為飼フ所の牛馬等算スルニ幾千頭」が「幾千町ノ耕地肥料」を提供してきたと記載されており、たたら製鉄の関連産業が有機的に結びつくことで、農業の生産性を高めている様子がうかがえます。


 そして、注目すべきは、鉄穴流しは農地の生成を通じて、中国山地の生活空間そのものを生み出し、あるいは育ててきた点です。例えば、前述の赤木祥彦先生によると、奥出雲町の大谷本郷集落においては、全農地の73%が鉄穴流し由来であり「大谷本郷地区のほとんどの集落は鉄穴流の進展とともに開発された集落」であるとしています。つまり、鉄穴流しは中国山地において暮らしの場である集落を生み出す原動力であり、このような開発プロセスが中国山地において幅広く行われた結果、藤山浩先生が『みんなでつくる中国山地2020』でも紹介されている、山あいに小規模な集落が点在するという「小規模分散」型社会の形成が促進されてきたと言えます。
 まだまだ書きたいことはたくさんありますが、長くなりますので続きはまた次回!

〈参考文献〉
(1)貞方昇『中国地方における鉄穴流しによる地形環境変貌』渓水社.1996
(2)太田猛彦 『森林飽和 国土の変貌を考える』 NHKブックス.2012
(3)荻原千鶴『出雲国風土記』講談社学術文庫.1999
(4)庄司久孝「近世以降・たたら(鑪)による中国山地の開拓」『岡山大学法文学部学術紀要第三號』.1954
(5)向井義郎「中国山脈の鉄」『日本産業史大系7(中国四国編)』東京大学出版会.1960
(6)横田町誌編纂委員会『横田町誌』横田町.1968
(7)横田町教育委員会『鉄師絲原家の研究と文書目録 : 絲原家文書悉皆調査報告書』横田町教育委員会.2005
(8)赤木祥彦「中国山地中央部における鉄穴地形の耕地化」『福岡教育大学紀要第39号第2分冊別刷』.1990
(9)田中豊治「日本畑作農業展開と切畑の位置づけ」『歴史地理学』.1981
(10)農山漁村文化協会『聞き書 島根の食事』農山漁村文化協会.1991
(11)中国山地編集舎『みんなでつくる中国山地2020』中国山地編集舎.2020

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