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わたしたちは日常的に、自らの自然観と死生観を表明してしまっている。どのようにして?

5月24日日曜日、摩耶山を起点に山を楽しむ「大人の下山部」(ネーミングセンスいいですよね)という活動に参加しました。今回は六甲山縦走路の一部、半分より少なめですが摩耶山頂から宝塚まで24キロもの距離を8時間ほどかけて歩きました。かなり疲れましたが、リーダーのとても行き届いたナビゲートと自然な距離感を持てた参加者の方々のおかげで、とても心地よい一日を過ごすことができました。ナビゲートしてくださったUさんが「膝大爆笑します」というのも可笑しく、でも帰ってからほんとに納得で、「足さんよく歩いてくれてありがとう」な一日でした。
山の中を歩く、美しい草木、花、そして生き物(モリアオガエル、鳥たち、毛虫なんかも)が?間近で見られて、ほんとうに美しいし、その完成度に魅せられます。「ああ・・自然ってなんてスバラシイの!ヨーロレイヒー」と思いかけるのですが、あら?自然とはなんでしょうか。この時の「自然」は自分を含んでいない外側にあるものを指して言っています。人間であるわたしは自然ではないの?自然とわたしはどういう関係なのでしょうか。
ひたすら歩きながら、ときどき前日にあった、たもとの会のことを考えていました。

前日23日土曜日に行った、たもとの会で読んだのは

竹之内裕文著「死とともに生きることを学ぶ――死すべきものたちの哲学」の第4章・いのちに与って生き、死ぬ―― マタギの背中を追いながら考えたこと・ です。参加してくださった方々は7人でした。

本文からの引用がまぜこぜになりますが・・・。
「生きること」を「生きることは食べること」という側面から眺めたとき、「生命体の本質とは他者を殺して食べること」と言うことができます。
またそのことを視点をかえて「生は死の賜物」というふうにも書かれています。食べ物はすべてもともと生命体だったものばかりですから、至極当然の理屈なのですが、私達の日常生活において、その「殺すことと食べることの不可分な関係」をまるで忘れたかのように、「殺すこと」などとは全く無縁のように食べて生きているのです。
よく見かける光景として、食べる前に感謝して・・・手を合わせて「いただきます」なんてやりますね。このごはんを作ってくれた人に、お百姓さんに、あるいは神様?に感謝しましょう・・・。でもわたしのいのちのために失ったいのちにたいして手を合わすことをしているのをあまり見かけたことはありません。

この章ではマタギという営みに身を置く人の作法や、その生態系(自然)に対する姿勢を学びそこから語られる言葉に耳を傾けます。彼らが生々しい生き死にと否応無しに向き合う中で、自然(生態系)からはみ出しかけている人間としてその中にギリギリ立つことができているということが書かれています。それでも本当に生態系のど真ん中に立っているような生き物に対しては、心から畏敬の念も持っています。マタギは山を歩く時、ケモノの歩いた跡、「ケモノ道」を歩くのだそうです。人間は道に迷うけれど、ケモノの歩いた道を行くと間違わないそうです。中でも長い冬眠の間飲まず食わずで生きることができるといった超人的能力を持つクマに対しての尊敬の念は多大で、それに引き換え、人間はひ弱だと言います。クマは自然の中で裸一貫その身ひとつで生きていける知恵を持っている、それは「想像もつかない力」なのです。

そんなひ弱な人間の非自然性、それはすなわち「文明性」だということですが、人間だって生身であるのですから、当然自然物です。であるはずが、意識してなのか、せずなのか、自然と距離を置いて立っているように思います。例えば「生態系の保護を訴える」ということがあるとします。でもその時点ですでに自然から自身を外においている、つまり「保護」という言葉を使っているからだということなんですね。確かに「保護」は自分に対して使う言葉ではないですね。

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わたし自身は「わたしたち人間は!」なんて大げさなことはあまり言えるような分際ではないと思っています。(もしかしてうっかり言ってたらスミマセン)わたし個人目線でしかわかりませんが、かつて、「親より恩のあるもの」を教えてもらったことがあります。
それは「空気、水」それがなければわたしは存在できない。そういうものを汚していく人間の行いはどうなのか。まあいわばわたしを取り巻く、わたしを生かしてくれている環境。それらが毒されてしまっても「生きる」は終わります。空気や水は生き物ではないかもしれないけれど、いのちという括りではなんとなく含まれてしまうような気がします。例えば自分のことを考えても自分の体の要素でもありますから。
となると地球に存在する全てものが繋がっていておおきな「いのち」というようなものに包含されているんだろうか…とか思います。(「ワンネス」とか聞いたことありますが…知らんけど。)
すべてのものは繋がっていて循環している。そうそう、エコロジーとは「循環」のことでした。本文では呼吸が世界との循環であり、呼吸が生の一部であるように「死は生の一部」であるということから、生と死が連続しているのであって、死によってその循環が静止するものではないと書かれています。エコロジーの再定義として、「それはだれが、だれを、いつ食べるのかということを意味するのだ」という引用がありました。突き詰めればということでしょうか。

この章のタイトルにもある「いのちに与る」ということの意味がまだまだわからないのです。「いのちを預かる」という言葉と比較されているのですが、その言葉の意味もすっきりわかっていません。なんとなくしかわからないんですよね。しかも文法的になんとなくという感じでしょうか。
「いのちを預かる」ときのいのちは「わたしのいのち」であって、「いのちに与る」ときのいのちは「私物化できないいのち」です。
もう少し詳しく表現すると「自分をすてて(その宇宙に循環する物の)大きないのちにあずかる」というふうに書かれてあります。
この読書会ではこの言葉は話題になりました。「うんうん」と頷く参加者の顔を見ながら、自分も頷いている。わからないんだけれども面白いなぁ!この感じは。なんとなく共有されているんですね。でもまだまだわかっていないです。シンプルな言葉ほどむずかしい。

そしてはみ出し者の人間の所業である文明文化です。改めて考えさせられたこと、こちら→ 「残す文化」「残さない文化」です。
巨大な人工物(人間の力の誇示)などを「残す文化」としたとき、一方で自然環境をそのまま子孫へ譲り渡すような、いわば足跡を残さないことに細心の注意を払いつつ、目に見えない精神的遺産(知恵や技術の伝承)を「残さない文化」と言っています。マタギ文化などもその一つなんですね。「残さない文化」がだんだん廃れていっているように思うのはわたしだけではないんじゃないでしょうか。このままでだいじょうぶ?心配になります。

母が死んでも、本当に苦しい状況に置かれているときも、わたしは食べ続けてきたから今も生きています。食べ物はいのちである。そうですね。
生きていてそのうち死ぬけれどもそれで終わるのは、今かたちを結んでここにいるわたしであって、おおきないのちに与ってわたしが生きてきたのであれば、循環の中での一幕でしかないのかなと考えてみています。自分という小さな殻に限定して生きるのではない生を、「いのちに与る」生き方をそれこそ、意識せず自然にできるようになったら本望かもしれないな…などと思いました。わかるとかわからないとかではないのかもしれないしナ、と自分を慰めながら。
でも気づいた以上、どんな生き方を選んでいくのか、まずは食べるもの、食べ方の選択を変えることはできるはずです。それによって
「わたしたちは日常的に、自らの自然観と死生観を表明してしまっている。」のである。
です。そうです。誰が見ているとか見ていないとか関係ないのです。
わたしが自然の一部であるならば、それによってまた自分に還ってくる。
襟を正さねばです。
どう生きるのか。どうよく生きるのか。自分に問いながら。
さ、またあしたがありますように。
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↓たもとの会で出したまかない↓
そこらへんで適当に材料を調達したなんの変哲もないサンドイッチですが、美味しいこと、食材を無駄にしない(使い切る)ことは
それなりにこだわっています。

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