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チアゴ・メンデス 1 彼の物語の始まり

チアゴ・メンデスは偉大なピボーテだ。多くのクラブを渡り歩き、苦難もあったが最後はマドリードの地でロヒブランコのユニフォームを脱いだ。
今年39歳になるポルトガルのレジェンドは、いまポルトガル代表のU16とU20のアシスタントコーチをしている。

彼のインタビューが掲載されていると知って、ポルトガル語に悪戦苦闘しながら文明の利器を使い、いくつか抜粋をしたのでここに記す。
原文のニュアンスをそのままに訳しているつもりだが、上手く伝えられていない部分もあると思う。また、分かりやすくするために原文にはない言葉を補足して付け加えている(もちろん本来の意図を歪めるような使い方はしていない)。そこはご容赦願う。
なお、抜粋しているもののかなりの量なので何度かに分けて紹介する。

原文は以下のURLから飛んで欲しい。こちらはさらにすごい量なので、読みごたえは十分だ。ぜひご覧いただきたい。
TRIBUNA Expresso

サッカーとの出会い~ブラガ

Q あなたのアイドルは誰でしたか?
私にはアイドルはいませんでした。
部屋にポスターを貼ったり、テレビでサッカーを楽しんだ覚えはありません。ジダンのような年上の好きな選手いましたが、アイドルはいませんでした。

Q 子供の頃、どのクラブを応援しましたか?
FCポルト。母はベンフィカ派、父と兄はFCポルト派です。

Q あなたの初デートは何歳?
15歳。

Q お相手はあなたの現在の奥様?
はい。学校でバーバラと出会い、今日まで…(笑)

Qサッカーでお金を稼ぎ始めたのはいつですか?
16歳のときにブラガへ行ったとき、クラブはすでに私を援助してくれました。200ユーロでした。

Qその最初のお金で本当に買いたいものはありましたか?
ガールフレンドと何度もランチに行ったことを覚えています。おやつや、ささやかな贈り物ができることは信じられないことでした。

Qそして、最初のボーナスで何をしたんですか?
次に行ったのは、家を買うお金を節約することでした。

Q代理人はいましたか?
はい、ブラガ時代だったと思います。ホセ・ベイガです。
当時ベイガが働いていたAlexandre Pinto da Costaを介していたのかどうかはわかりませんが、ベイガが私のマネージャーでした。

Qブラガにいる間、いつも叔母の家に住んでいたのですか?
いいえ、私がプロ契約に署名したとき、ブラガは私にアパートをくれました。
私は一人でそこにとどまり、彼女のバーバラは心理学を勉強するためにミンホ大学に入学しました。その後、彼女は私と一緒に暮らすようになりました。
一緒に暮らしていたのはたった6か月でした。1月にベンフィカに行ったからです。

ベンフィカ

Qベンフィカに行ったときのことついて教えてください。
当時、何人かの代理人が私に電話をかけ始め、クラブについて話し始め、私はホセ・ベイガに電話しました。
1週間後、リカルド・ロシャとアルマンド・サと共にベンフィカに移籍しました。

Qベンフィカからのオファーを聴いたとき、あなたはどう反応しましたか?
とても幸せでした。私は行きたいという願望でいっぱいだった。
当時のベンフィカは難しい時期を迎えていましたが、あのベンフィカですからね。

Q彼女はどのように反応しましたか?
(笑)。彼女は私と一緒にいるためブラガに移動することを選びましたが、突然私はリスボンに行くことになりました。
もちろん彼女と私にとっては幸せでしたが、彼女はフットボールに関心がないので、私がベンフィカに行くこと以上に、私の近くにいたかったんです。しかし彼女はまだ大学にいます。なので、彼女が時々リスボンに訪れることになりました。

Qリスボンへの適応はいかがでしたか?
大きな変化です。複雑でした。
ベンフィカでの最初の数週間は「ここで何をしているのだろう」と思ったことを覚えています。

Qなぜですか?
ロッカールームの雰囲気が良くなかったのです。ロッカールーム内にはいくつもの分裂がありました。
ブラガでは、全員が家族で選手同士に大きな団結がありました。

Qベンフィカに行ったとき、まだ一人暮らしでしたか?
私たちは2002年に結婚し、一緒に暮らしていました。
しかし、彼女は勉強を続けていました。

Q心理学コースを修了しましたか?
いいえ、それは途方もなく困難でした。
後にロンドンに行くことになったとき「ブラガのときのように2〜3日過ごすことはできないから、私と一緒に行こう」と伝えました。
彼女は3年間留まりました。

Qロンドンへ行く前、フェヘール・ミクローシュが亡くなったとき、彼はフィールドにいました。テレビの映像では、あなたがすぐにそれが深刻であることに気づいたことがわかります。
はい、それは私の人生で最も辛い瞬間でした。私はすぐに彼が亡くなったことに気づきました。説明できませんが…死んだ人を見たことがありませんでしたが、彼はもう何にも反応せず、完全に向こう側にいると感じました。そして、それはとても…とても辛かった。

Qチーム全体を揺さぶった。
はい。彼のロッカーをそのままにして恋しく思う一年でした。彼のロッカーは取り外されず、シャツはまだそこにありました。私たちの日常生活には彼の場所があり、私たちがロッカールームに入るたびに何かが欠けていることを感じました。

おわりに(あとがきと予告)

気づいた方もいるかもしれないが、主にチアゴ自身のパーソナルな面やあまり知られていない面を中心に抜粋している。
特に奥さんのバーバラさんとの話は読みながらに素敵だと感じた。
また、ここには抜粋しなかったが、彼は子どものころに地元チームに入らず近所のハンドボールチームでGKをしていたという意外な一面も知ることができた。
私はチアゴの晩年のプレイを見て、ピボーテというポジションに魅せられた物珍しい存在だ(本来はピルロやブスケッツを挙げる人が大多数だろう)。だからこそ、彼の人となりを知ることができてとても嬉しい。

今回はこの辺で。
次回はチェルシーからリヨンでの出来事を紹介する予定だ。

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