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赤くて、丸くて、大きい

ウチのおじさんは「あまおう」が大好きだ。

「あまおう」。赤くて、丸くて、大きくて、美味い、「あまおう」。名前負け知らずの甘くておいしい高級イチゴ。近所の庶民的なスーパーですら1パック1000円で売っていて、目ん玉が飛び出そうになる。

おじさんはスーパーに立ち寄ると、その高級イチゴを必ず買う。わたしにはとても手が届かないが、彼にとっては慣れ親しんだはずのそのイチゴを、飽きもせず毎回カゴに入れる。

家に帰ると彼は鼻歌を歌いながら台所でイチゴのヘタを取る。わたしは顔を洗って、化粧水をバシャバシャやりながら、ボーッとテレビを見ている。あまりにボンヤリしているものだから、彼がウキウキしながらピカピカのあまおうをテーブルにセットしたことにも気がつかない。

暫くすると痺れを切らした彼が「ねぇねぇ。」と言って、フォークに刺さったあまおうとシャンパンをこちらに差し出してくる。シャンパンとあまおうはとても相性がいい。しゅわしゅわとした泡の中で柔らかい果実をぐちゅっと潰すと、甘みと酸味と罪悪感が口の中で混ざり合う。

彼はニコニコしながらわたしを見ている。その姿は若い女に入れ揚げるパパ活おじさんのようでもあるし、とっておきの宝物を大人にプレゼントしてはしゃぐ幼児のようでもある。

そのときのわたしはケタケタと父に甘える娘のようでもあり、息子からおもちゃを大事に受け取る母親のようでもある。


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おじさんと会うのは週に一度。食卓で互いの一週間を報告しあう。

土曜日に西原さんと飲んだ。勉強が辛かった。バイト先で翻訳の仕事を褒められた。原稿が書けなくて悔しくて泣いた。

おじさんも職場でのアレコレを話してくれる。ボスの齊藤さんはおだてに弱いんだけど、頑固なところがあるんだよなぁ。中田くんは真面目だけど、ちょっと要領が悪くて。秘書さんと行き違いがあって嫌な顔されちゃったよー。

頑固な齊藤さん・真面目な中田さん・行き違った秘書さん…見たこともない職場のたくさんの固有名詞が飛び交う。一つ一つフォルダに入れて整理する。出口さん・齊藤さん・望月さん・秘書さん・広田さん・中田さん…

ふと実家のダイニングテーブルの貫禄ある木目が目の前に現れる。漢字ドリルに何回も「林」と書きつけながら、カウンターの向こう側の台所で夕食の準備をしている母に話しかける。カナちゃんに貸したねり消しが真っ黒になって返ってきたの。隣の席の石川くんが授業中うるさいよ。吉田さんが大縄に入れてくれないの。

「そうねー。困ったねー。」と母が返事をする。リズミカルな包丁の音が聞こえてくる。石川くん・カナちゃん・吉田さん。母は何人のわたしの同級生の名前を覚えただろうか。どんな人物関係図を頭に思い描いていただろう。

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幼い頃、母に連れられて郊外の百貨店に通った。エスカレーターを降りると、一瞬、母との間に距離ができる。母はこちらを振り返らずに、リレーでバトンを待つみたいなかたちで手を後ろに突き出してわたしを待つ。わたしは駆け足でその手にしがみつく。

母の手はひんやりと冷たい。彼女はいつも長い丈のダウンコートを着ていた。そのコートはなぜかよく静電気を起こす。母のコートに髪の毛を引っ付かせ、時々パチツとなって顔をしかめながら、それでも腕を離すまいとしがみつく。

大人になったわたしはおじさんと新宿三丁目へ出かける。地下通路で雑踏に押し流され、彼を見失いかける。彼はこちらを振り返らない。不安な気持ちで駆け寄ろうとすると、彼はあのかたちで後ろにスッと手を突き出す。

わたしは駆け出すのをやめて、ゆっくり彼の手を取る。彼は黒いウールのオーバーコートを着ている。元々は上等なしっかりとした生地だったのだろうが、もう何年も着古してくったりしている。その肌触りが妙に心地よい。

彼の掌のぬくぬくとした体温を確かめながら、グッと腕に力をかけてみる。腕に体重をかけられて、ずいぶんと歩きにくそうだ。彼がついにこちらを見る。

「ちょっと面倒臭いことがしたくなって。」

わたしは照れ笑いをする。

「まぁ。いいんじゃない。」

彼は表情を変えることなく、また真っ直ぐ前を見る。わたしはその揺るぎなさにようやく安心する。

今夜はピザを食べに行こう。

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