わたしが祖父の名前を知らない理由

祖母は死んだ祖父の名を絶対に口にしない。

わたしの祖父は母が2歳のときに亡くなったらしい。母は祖父の顔を覚えていない。「そんな小さなときに亡くなったから、父親がいないことが当たり前だったのよ。近所のおじさんも構ってくれたしね。さみしくはなかったなぁ。」と母は言う。

祖母は女手一つで母を育てた。茨城の農家から上京し、新宿の小田急百貨店でお針子さんとして働いて、数々の著名人のスーツを仕立てたそうだ。「石原慎太郎さんの股下が長くてねぇ。びっくりしたわよ。やっぱり裕次郎のお兄さんなのねぇ。」とは祖母の談。

東京で祖父と出会い、当時にしてはめずらしく恋愛結婚をしたそうだ。しかし詳細を語らない。母も馴れ初めを聞いていないという。祖父が亡くなった後、実家にお見合いをすすめられたらしいが、祖母は当日裏口から逃げ出してしまったそうだ。「後家さんやったら一生やめられないんだって。結婚って面倒だもんねぇ。」と母は笑う。

祖母は短い結婚生活でそんなに苦労したのだろうか。わからない。ただ、祖母は母が小学生くらいのときに難病指定の膠原病にかかって、そのことでは大変苦労をしたそうだ。まだ幼い母を一人で抱えて、祖母の不安は如何ばかりであっただろう。一時期はいかがわしい宗教にどっぷりハマっていたこともあるという。今でもそのときの名残なのか、祖母は一種の健康オタクだ。毎日ドクダミ茶と筋肉トレーニングを欠かさない。

戦時中の空襲、疎開、戦中・戦後の食べ物の苦労、親戚の徴兵、実家の借金、東京の闇市、赤線青線の様子等、祖母は様々なことをざっくばらんに話してくれる。それでも祖父のことだけはどうしても教えてくれない。

あるとき、母は幼いわたしを祖母に預けて用事に出かけた。当時まだ60歳そこそこだった祖母とわたしは、ベランダにチョークを持ち込んでケンケンパをしながらお留守番の時間を過ごす。一通り身体を動かした後は、まったりとお絵かきをする。わたしは本で読んだばかりの「家系図」の知識を使いたくて我が家の図をベランダの床に書きつける。

「ねぇねぇ。おじいちゃんの名前ってなんていうの?」

それまで気さくに遊んでくれていた祖母の顔が一瞬でこわばるのがわかった。幼心になにか悪いことを聞いただろうかという懸念がわく。それでも自分の祖父の名前くらい教えてくれたっていいだろうという気もした。

懸念を振り払ってもう一度聞く。

「ねぇ。おじいちゃんなんていうの?」

祖母はたしか「口にしたくない。」というようなことを言ったと思う。「書くのならいい?」と尋ねるとそっとチョークでその名前を書きつけた。祖母はずっとうつむいていた。

目にしたことのない祖母の緊張感に、見てはいけないものを見たことがわかった。祖母はすぐにその名前をベランダから消してしまった。わたしもなんだか気まずくて、その名をすぐに忘れようと努めた。今思えば、なんて惜しいことをしたのだろう。自分からせがんだくせにその名の重要性をまだ理解していなかったのだ。

どうして祖母は祖父の名を教えてくれないのだろう。なにを思い出したくないのだろう。もしかしてわたしの祖父はその名を口にするのもはばかられるような極悪非道な人間だったのだろうか。「名前を言ってはいけないあの人」的な。

お酒を飲みがてら、パートナーにそんな話をこぼす。どうなんだろうねぇ。答えを求めるわけでもなく、宙を見つめた。

「それはさぁ…。」

パートナーがそっと目を細める。

「まだ、好きなんだよ。」

えっ、と声が出る。なぜわたしはその可能性に今まで気がつかなかったのだろう。寡黙で生真面目で、伝統と慣習に従順で、皺々で腰の曲がったやさしい小さな「お婆ちゃん」。その下にあるであろう生の女性としての姿があることにまったく思いが至らなかった。考えたこともなかった。

実際のところ、真相はわからない。彼の言うことは間違っているかもしれない。答えを聞ける日は来ないだろうという気もする。

でも、彼の言うことがもし当たっていたとしたら、祖母は口を閉ざすことで祖父を永遠に独占することに成功したのだ。祖母はもう90歳近くなる。その伴侶であった祖父の名を、祖母との出会いを、二人の生活を、この世に知る人はもうおそらくいないのだから。

わたしは祖父の名をまだ知らない。


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