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くすり

毎晩、眠るための薬を飲んでいる。持病があって、夜に長く眠れなかったり、昼に長く眠りすぎたりしてしまうからだ。

この薬を飲む前はいつも、この行為が本当に正しいのか考えてしまう。『ピダハン』(ダニエル・L・エヴェレット・著 屋代通子・訳/みすず書房)という本は、とある部族に夜に深く寝てはいけない、という教えがあることを描いていた。人工の明かりがなく、野生の動物が闊歩する夜の森では、いつ何時危険が訪れるかわからない。深い睡眠が命取りになるのだ。だから、その部族の人は睡眠が浅く、細切れである。代わりに昼間も比較的長く寝る。わたしは現代の日本に生まれて、昼に働いてお金を稼がないと食っていけない社会で暮らしているから、夜に長く深く眠り、昼はしっかり覚醒して生産力を上げることが求められている。だから、わたしが病である、というより社会に病を強いられているのである。わたしは身体を社会に合わせるために薬を飲んでいるにすぎないのではないか。

ともあれ、そんな屁理屈は現代の日本のストリートではあまり役に立たないので、わたしは薬を飲む。眠る前には不安がある。意識が途切れることへの恐怖がある。これが俗に言う「死への恐怖」なのか。否、わたしは10歳のときには明確に「死にたい」という気分を持っていた。とはいえ、「死にたい」も「死にたくない」も「死」という対象への愛着、というか執着があることにはかわりないのかもしれない。わたしは「死」に憧れ、「死」を恐れる。

変な夢を見た。わたしたちはバスに乗ってとある美しい博物館か図書館のような施設に来た。中を見学していると、とある美しい絵画を見るためには長い長い梯子を上って、異なる階層の部屋に移動しなければならない。しかし、その帰り道ではどいうわけかその梯子を一段一段降りることはできない。どういうわけか、一段一段降りるうちに、早い段階で必ずどこかの足場が崩れる。そしてその梯子から落ちた人は固い木の床に叩きつけられて、絶命する。梯子は一人ずつしか降りることができない。降りなければいけないことは決まっており、その美しい絵画のある部屋に長くとどまることはできない。 

わたしたち4、5名のクラスメイト?は木製の座卓を囲んで順番を待っている。飛び降りる順番を。向かいには片思いの男の子が座っている。ふたりともこれから死ぬ。死を確信した円卓はやけにテンションが高い。同級生が落ちる、硬い音がする。鮮血が見える。その度に死を待つ皆の声が大きくなり、笑顔が増えていく。わたしたちは美しいその絵画を見るために死を「決断した」のだ。しかしそれはどの瞬間から? 指先はどんどん冷えていく。向かいに座る片思いの子は何も恐れていないように見える。彼は心中で、何を考えているのか? わからない。わたしは彼の恋人ではないし、心を開いた関係ではない。

わたしの順番がきた。梯子に足をかけて見下ろす。地面はあまりに遠く、梯子の作りはやはり心もとない。顔に当たるわずかな風が冷たい。そこでわたしはふと考えがよぎる。「毎年、この課外活動で何十人もの生徒が死んでいることを、学校は問題にしていないようだ。だが社会は問題にしないのか? なんとか外部と連絡が取れないだろうか?」

そこでわたしの夢は終わる。

目が覚める。今日も生きている。今日も働く。「死」への羨望と恐怖を他者との関わりが忘れさせる。他者がわたしからわたしを引き剥がす。

明け方に目が覚める。いつもなら電気をつけてまた眠くなるまで本を読むのだけれど、今夜は隣でパートナーが眠っている。彼を起こしたくはないが、明け方に眠れない孤独に耐えるのはつらい。こんなことをしたらますます眠れなくなるのはわかっているけど、仕方なくスマフォをいじる。無数のつぶやきがわたしの気を紛らわせる。

しばらく夢中になっていると、パートナーが薄目を開けてこちらを見ている。ブルーライトで起こしてしまっただろうか。「眠れないの?」と彼は尋ねる。わたしが小さく頷くと、彼はわたしがスマフォを握れないように強く抱き寄せる。わたしは彼の腕の中で1つ、2つ、3つ……と数えるうちに、気がついたら眠っている。

朝が来る。彼が歯を磨く音で起きる。眠たい目をこすって彼を見送る。彼の背中を見て、もう少しだけ、と決心する。あと少し。あと少しだけ。

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