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ニオイ

家の人の「ニオイ」について警告することは、同じ屋根の下に暮らす者の責務であると、わかってはいてもこれがなかなか難しい。

「あなた臭いよ。」という言葉は破壊力が強すぎる。どんなに仕事ができようと、顔が良かろうと、親切だろうと、すべてをひっくり返すほどの衝撃がある。だから家の者こそ、というか、家の者だけが指摘すべきなのだろうが、それにしても繊細にすぎる問題である。

わたしはウチのおじさんのニオイは好きだ。自分からは石鹸やシャンプーや化粧品のしゃらくさい香りがするが、おじさんからは人間の香りがする気がして安心する。時折彼の脱ぎ捨てたパジャマを着て香りを纏って床につくこともある。よく眠れる。気味が悪いのはごめんなさい。

しかし、ある日地下鉄に乗っていたときのこと。車両に乗り込んだ瞬間に"ウチのおじさんのニオイ"がふわっと香ってきた。こんなところで偶然出会えるなんて、今日は運がいい!浮き足立ってキョロキョロする。すると、そこにいたのはウチのおじさんではなく、ただのおじさんだった。

わたしが"いいニオイ"と思っていたのは、一般的に加齢臭と言われているものだったのだ。わたし個人はそれと彼とのよき思い出-楽しかった旅行、感想戦が多いに盛り上がった映画、辛い時に寄り添ってくれる優しさ-が結びついているため、"いいニオイ"と認識していただけのことだった。

加齢臭とよき思い出が結びついている人は、世の中そう多くないと予想する。でなければこんなに加齢臭が蛇蝎の如く嫌われることもないだろう。強権的な上司、高圧的なクレーマー、ダサい父親とそれに反発する思春期の自分。さまざまに嫌な思い出の集合体が加齢臭である。

そういうわけで、彼がそのニオイによって外界で理不尽に嫌われてしまうのは、同じ家の者としても本意ではない。ふつうに可哀想だ。ただ、彼は人一倍繊細な人間でもある。真実を知らせるのはやや酷に過ぎる気もする。いかがしたものか。

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考え事をしながら、皿を洗う。中性洗剤の平坦で常識的なニオイを嗅ぐ。遠くでラジオが鳴っている。MCが笑いながらこんなことを言う。

「正論を突きつけるときは、せめて馬鹿のフリをしないといけませんよ。」

次の日、わたしは出会い頭の彼にニコニコしながら告げた。

「こないだ電車に乗ったらウチのおじさんのニオイする!と思ってウキウキであわてて探したらただのおじさんだった〜(てへ♡)」

翌朝から彼は朝出かける前にシャワーを浴びるようになった。

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彼が朝シャンの習慣を始めてから一ヶ月程が経った。今朝もシャワーをして出かけるのかと思いきや、わたしを抱き枕にしてぎゅーだのよしよしだのしながらダラダラしている。10分、20分と時間が過ぎていく。ついに通勤時間ギリギリ。シャワーを浴びる時間はなくなってしまった。

モゾモゾとベッドから這い出し、ヤバイヤバイと呟いている。しかしそんなことを言いながらも、わたしからの手土産の焼き菓子をボソボソと口に入れる。バターのいい香り。朝ごはん食べたの超久しぶり。美味しいねー。などと言っている。

スーツを着て、雑に寝癖を直し、いってきますのキスをして、缶・ビンのリサイクルゴミの袋を手に表へ出る。わたしはそれをボンヤリと見送る。

まぁいいか。

1日くらい職場の女に嫌われてくればいいのだ。

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