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人間は捨てられる、のにうさぎときたら

人間と交際して適当なところで捨てて大した罪悪感はないが、うさぎを道端に捨てるなんて多少の非倫理的な行動は辞さないと自負するわたしでもかなり無理がある。

大きな人間は自分のごはんくらい自分で調達できるし、トイレトレーニングも済んでいるし、暑かったり寒かったりすれば文句は言うだろうが大雑把な温度管理でも丈夫に過ごすし、なんなら外貨を稼いで家計に入れてくれることすらあるが、うさぎは放っておいたら死んでしまう。

ここ数日うさぎが飼いたい。

うさぎは可愛い。なにしろ可愛い。見た瞬間に脳からヤバい汁が出て自分が馬鹿になるのがわかる。見ているだけでくらくらするような気持ちよさがある。他人のうさぎのYouTubeを見ているだけでこんなに気持ちよくなるのだから、手元に置いたら大変なことになるに違いない。それが社会的に幸せかはわからないが、快楽的な人生ではあるだろう。

しかし、他人のうさぎのYouTubeによると、小学校の校庭で雑な檻に雑にぶち込まれ2・3年で死んでは葬式一つもされなかった野蛮な時代とは違い、大切に育てられる現代のうさぎの寿命は7〜8年もある。長いと10年生きる子もいるのだという。10年生きたらわたしは38歳になってしまう。38歳の自分すら想像できないのに一匹のうさぎが生まれて死ぬまでの行く末について責任が持てる気がしない。

うさぎは一匹1〜2万円で買える。比較的安価だ。繁殖しやすいからだろうか。その反面、結構繊細な生き物のようである。温度変化に弱い。春夏秋冬室温を22〜25度程度に保たなければならない。首が傾く不思議な病気にしょっちゅうなる。トイレを覚える。賢い。そしてなによりよくないのが、意外と人になつく。飼い主が来るとクルクルと飛び跳ねて喜び、撫でられると気持ちよさげに目を細める。

うさぎになつかれたらもうダメだ。わたしは骨抜きにされ、わたし自身の人生を歩めなくなるだろう。人生はうさぎ中心。うさぎが可哀想だからと飲み会も残業も断り、うさぎの遊び場を確保するために郊外に引っ越すかもしれない。

上述したように大きな人間なら多少雑に扱っても死なないし、究極捨ててもいいわけであるが、うさぎの命は完全にわたしに依存することになる。大きな人間ならば人間の社会の鎖の中で勝手に生き給えよ、と言えるが、うさぎを自然の理から断ち切ったのはわたしなのだから、わたしが責任を持って命を繋がなければならない。

100%生殺与奪の権をわたしに預けた存在。そんな小さく尊くあたたかい存在が、わたしに愛着を持つ。わたしを頼る。重い。同居するにはあまりに重い。

それに他人のうさぎのYouTubeをみていると、あのごはんがいいとか、おやつはこれがいいらしいとか、トイレもこまめに掃除しなきゃ、スキンシップも結構好きなんだな、爪切りは3ヶ月に一回、ブラッシングもしてあげよう、元々運動量のある動物だからそれなりに広いスペースを、いやなんなら一部屋あげてあげたいくらいだとかやってあげたいことばかりがつのり、結局甲斐性なしのわたしの手には余る気がしてくる。

とはいえ、そんなわたしでもこんなにうさぎを飼いたくてたまらないのは、わたしに完全に依存している、わりに勝手気ままに振る舞う無遠慮な存在を傍に置いておきたい暴力的な気持ちがあるからだろう。そのような一方的な支配欲をぶつけるとしたら、やはりうさぎよりも人間の方が罪悪感も薄ければ、手間もかからず、そして万が一にも刺されるかもしれないという恐怖心がわたしを我に返らせ、謙虚にしてくれるだろう。ひいては己の生命に手応えを与えてくれるだろう。

わたしはうさぎよりも人間を飼わなければならない。

恋を、しなければならない。

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