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断片的なもの、夏。

この夏は、記憶が途切れがちだ。

あまりに大規模な運動会が、多くの人々の反対する中、開催された。個人の主張と集団としての意思決定が分裂し、個人の中でもこの大会に文字どおり人生のすべてを賭けてきたであろう選手を応援したい気持ちと重篤な症状を引き起こす感染症が蔓延する今それが行われるべきではないのではないかという気持ちが分裂し、五輪とは比べものにならない程小規模な、しかしそれはそれとして大切だったライフイベントが一つ一つペンディングになり、のっぺりとした、起伏のない毎日で、暦の感覚も曜日の感覚も失われ、時間と意識はちりぢりに散っていった、そういう夏だった。

そういう夏に、どさくさに紛れてというべきか、わたしは一つ大きな決断をした。仕事を得て、引っ越すことにした。次に住むところは土地の低い場所なので、雨が心配だ。地球温暖化も切実な危機として感じられるだろう。基本的に怠惰な人間なので、こういうきっかけで意識が変わることは悪くない。

新しい物件の大家さんはきちんと挨拶することが必要な、古き良き伝統的なタイプのご夫婦なので、手土産を買って行くことにした。特になんのアイディアもなく百貨店に飛び込んだが、陳列された様々にうつくしい品々を眺めていると、このような際の手土産には羊羹が最適であることに気がついた。羊羹は手土産のために生まれてきたような菓子である。嵩張りすぎないコンパクトなサイズ感でありながら軽薄になりすぎない程にはじっとり重く、こちらの財布が痛むほどではないが罪悪感が生じない程度の価格が設定され、日持ちがして、神妙な、落ち着いた佇まいである。ケーキではこのようにはいかない。すぐ崩れてしまうし、日持ちもしない。煎餅ではすこし軽すぎる気がする。やはり羊羹である。

新居の大家さんに羊羹を渡す。それはわたしが久々に得た、地に足のついた生活の実感だった。我らが東京、とはいいながら、無観客で、テレビの向こうだけで行われているオリンピックも、マスクの向こう側にしか見えない人間の素顔も、ある日突然未読になる男も当てにはならないが、大家さんに渡す羊羹にはたしかな文脈があり、質量があった。

羊羹という菓子の売り場は年々縮小されているのではないかと危惧するが、しかしいつまでも図々しくそこに在り続けてくれたら嬉しく思う。まっしろのふわふわしたクリームだけでは時に心許ない。目の詰まった漆黒が手繰り寄せる生活感が、どうしても必要とされるときがある。こういう日々はきっと100年前にもあり、そしてまた100年後にも来る。

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