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笑顔の奥にあの目が見える

それは突然やってくる


どうしてもパティのお肉が食べたくてUberEatsでハンバーガーを注文した。今日は寒いし、仕事で疲れたから家もでたくない。おなかを満たしたら、ゆっくり部屋の掃除でもするはずだった。

こんな時に限って、トラブルはやってくる。誤配だ。「お届けしました」というメッセージに添えられた写真には隣の家の玄関に置かれた愛しのパティ。まだ話したことがないお家だった。黙って回収しようと思ったが、玄関の前には門があって入れない。初対面がこれかよ…と少しげんなりした。

インターホンを押すと、おばあさんの声がした。事情を説明すると、快く対応してくれた。おじいさんとおばあさんの二人暮らしのようだ。夫婦はそろって外にでてきて、商品を手渡しで渡してくれた。「こんなことがあるのね、お風呂に入ってなくてよかったわ」などと冗談も交えつつ話しをしてくれる、人のよさそうな温和な夫婦だ。私は、隣に住んでいることやUberEatsの仕組みなどを説明し、謝罪をしつつ家に戻った。

フラッシュバック


宅配サービス、便利だけどこういうトラブルもそれなりにあるから考えものだなぁ、などと思いながらハンバーガーを食べ始めた。が、動悸がとまらない。+100円で倍にしてもらうほど待ち望んでいたパティの味もしない。

「あれ、おかしいな」と感じるのと同時に、頭の中で優しそうな夫婦が家の中に戻り、温かかった笑顔の仮面をはがし、私の悪口を言っている様子がみえる。「あんな人が隣人にいるのか」とまゆをひそめて、何やらこそこそと話している。確かに思い返すと、お礼をちゃんと言えてなかったかもしれない。頭は下げたけどちょっと適当すぎたかも。そもそも引っ越したときに挨拶に行かなかったところから悪印象だったかも。そのうえ初対面がこんなことで…。ああ、なんで今日Uber頼んじゃったんだろう…。

全部妄想なのはわかっている。自我を失うほど妄想に支配はされていない。でも、本当に悪口を言われている可能性がある限り、これは現実かもしれないのだ。

もう一度、自分の頭の中にもどる。私の悪口を言っている夫婦の顔をよく見てみる。そのまゆの下がりかた、その目、その声色・・・

ああ、これはあの夫婦の顔ではない。母親の顔だ。

そこでようやく理性を取り戻す。
私が見ているのは、父親や親せきや近所の人、そして私の悪口を言っている母親の顔だ。「お礼はもっとちゃんと言わないとだめ」「夜に突然インターホンを鳴らすなんて非常識だ」「そもそも配達なんか贅沢をしているから他人に迷惑をかけるんだ」頭の中のいつかの母親が、私にむかって話している。

そこからは、いつもの作業だ。
まずは頭の中にいる母親の罵倒を一つひとつ否定していく。私はお礼をしっかりしたし、夫婦は笑顔だった。私にはインターホンを鳴らすしか選択肢がなかったし、そもそも自分で稼いだ金は自由に使っていい。・・・母親から否定のことばが出てこなくなって、自分を肯定することができたら、作業は終わり。少しずつ肉の味も戻ってきた。

さいごに

そんな環境で育った私は、大学で親元を離れて自分で世界を広げたり、カウンセラーに支えてもらったり、さまざまな経験を経てそれなりに自分を肯定しながら、過去の自分を客観視しながら、楽しく日々を過ごしている。

それでも時々ふとした瞬間にあの目を思い出してしまうのだ。
上司からほめられたときや、すごく楽しかった飲み会の帰り道や、初めて会う人たちと思いがけず話が盛り上がったりしたあと、ふと一人になると、相手の優しい笑顔の奥はどんな目をしていたのかが気になってしまう。他人のあらを探し、目ざとく見つけ、少し悦に入りながらささやくあの目があるのではないかと怖くなる。

こういうのは、トラウマ、といえるのだろうか。そういうには大げさすぎる気もするが、平凡な私の人生の中では一大事なのだ。ここまで読んでくれた人には分かってもらえると思うが、私はこういう性格なのでこんな話は身近な人には話せない。そんな私の話を知らない誰かに知ってほしかったので、今日は文字にしてみた。

・・・ここまで書いて、ようやく動悸が収まってきた。ポテトがカピカピになってしまったので、温めることにする。


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