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『Coda あいのうた』感想 -家族という憎らしくて愛しいもの-

「Coda」とは、耳の聞こえない両親に育てられた子供、という意味だそう。2022年にアカデミー作品賞などを受賞しているため、
以前からこの映画については知っていたものの、
家族をテーマにしたものは、
自分の中の様々な感情が刺激されすぎるのでなんとなく避けていた。

自分以外は耳が聞こえない家族の中で、
「歌」に魅せられてしまった女の子、という設定だけで、
「いやもう、それしんどそう」と思ってしまって。

でも、最近観た岡田斗司夫さんのYouTubeで、
辛口の岡田さんが「わけのわからない感動が半端ない」と
激押ししておられたので、重い腰を上げて観てみた。

結果…観終わって数日経っても、
思い出し泣きでうるっとするというくらい感動した。
でも、お涙頂戴的な内容ではなく元気をもらえる作品だと思うから、
私と同じように「家族がテーマの作品は胃もたれしそう」という方にも
観ていただけたらなと思う。

(以下はネタバレになります。
 これから観る予定の方は、ここでページを閉じて、
 観終わってからぜひ戻ってきてくださいね。)


あらすじ

主人公のルビーは高校生活を送る一方で、
朝3時に起きて家業である漁師の仕事をするという生活を送っている。
それは、両親と兄が耳が聞こえず、
彼女が通訳として欠かせない存在であるため。

ルビーは歌うことが好きで、高校の合唱部に入部し、
そこで音楽の先生に才能を見出され、音楽大学への進学を勧められる。
けれども、家族はそもそも「歌」というものが理解できず、
また、家業が多忙を極める中で、
ルビーは自分の夢と家族との間で心が引き裂かれそうになる。

Codaにとっての手話と言葉

耳が聞こえない家族の中で、ただ一人自分だけが聞こえる存在…
私自身はそうではないため、
今回の映画で見た内容からしか推測できない。

親の話し方を真似て言語を習得することができず、
相手の言わんとすることを理解し、自分の想いや意志を表明するには
まずはジェスチャー、次に手話を使うということになるのだと思われる。
ルビーの第一言語は英語ではなく手話ということになる。

そのため、ルビーは「話し方が変」ということで
同い年の子たちからからかいの対象になってしまう。
歌が好きだけれど、人前で歌おうとすると怖くて逃げだしてしまうくらいに
自分の声、ないしは話し方に自信がないという描写がある。

音楽の先生が「歌っているときどんな気分になる?」と
ルビーに問いかけるシーンがある。
ルビーはうまく言葉にできず、手話でその問いに答えるのだけれど
そのしぐさや表情が、何ともいえず胸を打った。

あえて無理やり言語化するなら、
「胸の中のもやもやや、湧き上がる怒りなどの様々な感情が解放されて、
まるで自分がふわふわと空に浮き上がってしまうような夢見心地になる」
という感じだと思うけれど、
「言葉」を使って心の柔らかい部分を伝えようとすると、
その多くが欠落してしまうということを改めて感じた。

一番身近な人と分かり合う難しさ

映画内では耳が聞こえないということによって
「家族」という自分にとって最も身近な存在と、
本当に理解し合うことが難しいということが強調されている。

ルビーの母親は、
自分には理解できないものに夢中になる娘の言動を
最初は反抗期の一種のようにとらえて真剣に取り合わない。
そして「音楽大学へ行きたい」と意思表明をしたルビーに対して、
家族の中に留まるように強く求めるようになる。

それは生活していくためにルビーの存在が必要不可欠であるため。
反抗したルビーが漁業をボイコットし自由に羽を伸ばした日、
父と兄だけで漁をした結果、
海上警備隊の警告音を無視し続けて摘発されるという事故が起こり
船が差し押さえられてしまう。

責任を感じたルビーは音大の受験を諦め、
「これからも家業を続ける」と家族に伝える。
母親はその夜、ルビーが生まれた時のことを話し、
小さな子供のように抱きしめ、ルビーもそれに甘えるというシーンがある。
その時のルビーの悲しげな表情が印象的だった。

精神的なへその緒を切る

母親は(上記の文章だけだと完全に毒親だけれど)
基本的に愛情深い女性であり、ルビーのこともちゃんと愛していて、
音大受験に反対する感情の中には
「私たちのBabyが遠くへ行っちゃうのよ」という
子供の巣立ちが寂しくて受け入れられないという母親の側面もある。

ただ、「依存」し「利用」する関係性がある限り
本当の愛情関係は生まれない。

ルビーも、一方的に依存されることに心底うんざりしつつも
「家族抜きで行動することが怖い」と吐露するシーンがある。

私自身と母親も、ルビーと母親ほどではないが、
共依存的な関係だったことがあるため、観ていて胸が痛んだ。

自分の都合に合わせて、
あるときは私を何もできない子ども扱いしたかと思うと、
あるときは自分を助けて癒すべき存在なのに何でそうしないのかと責める。
私は私で、母親の期待に逆らうことをものすごく怖がっていた。

そんなときに、あるお世話になった方から
「親との精神的なへそのを緒切りなさい」と言われた。
物理的なへその緒は出産時に別の人が切るけれど、
精神的なへその緒は子供が切らなといけない、
なぜなら、親は痛すぎて自分でそれを切ることができないから。

そして精神的なへその緒を切ってあげることは親のためでもある。
なぜならそれをしない限り
お互いに本当に自由になることができないから、と。

映画では、ルビーが母親から自立し、母親がルビーから自立することで
ルビーは家族からの愛情をまっすぐに受け取れるようになり、
母親は自らコミュニティーに入っていきそこに溶け込もうとする。

理解し難きを理解しようとする

子供のころは親からのケアや愛情が必要不可欠だけれど、
成長するにつれて親から与えてほしい愛情は
「理解し難きを理解する姿勢」なんじゃないかと感じた。

ルビーの発表会のシーンでは、
カメラがルビーの父親の目線になり、
歌もBGMも消え全くの無音になるというシーンがある。

ルビーのデュエットになった場面で、
それまで音が聞こえないため、
退屈して周りをきょろきょろと見まわしていた父親の目に
客席の人々の様子が入ってくる。

歌を聴きながら楽しそうに体を揺らす人、
うっとりと聴き入る人、
目に涙を浮かべる人、…
それを見て、自分の娘に本当に歌の才能があるのだと気づく。

この父親、母親同様に非常に愛情深いタイプではあるけれど
役所の人と話すときにもスラングや下ネタを連発し、
それを年頃の娘に「訳せ」と言うトンデモ父ちゃんだったりする。

映画の冒頭で父親が爆音でラップをかけながら軽トラを高校に横付けし、
ルビーが嫌がるというシーンがあるけれど、
それはラップのビートがケツに響いて気持ちいいからという理由から。

映画内には何か所も感動ポイントがあるけれど、
私の一番は、発表会が終わった後に父親が
「自分のために歌ってくれないか」と言い、
指先で喉もとに触れてその振動を感じとろうとするシーン。

父親にとっての音楽を理解する唯一の方法で、
何とか娘のことを知ろう、理解しようとしていることが
ひしひしと伝わってきたから。

親から与えてほしい最大のことは、
愛情とか心配という名のクソバイスではなく
自分には全く理解できないことと
「この子の言うことなら、この子のことだから信じよう」という
姿勢なんじゃないかと思う。

どの場面にも自分や自分の家族がいる

他にも、ルビーのお兄ちゃんがいい味を出していて、
家族が妹ばかりを頼りにすることに嫉妬したり、
自分を不甲斐なく感じたり、
一方で妹が家族の犠牲になり夢を諦めることを
本気で止めようともしてくれる。

こういう、兄弟姉妹間で嫉妬したり、
相手をうらやましく感じたりするところや、
とはいえ相手のことが親とは違う目線で
子供のころからお互いによく知っているからこその
心からの気づかいだったりが、
「あーわかる、この感じ」となる。

どの場面にも自分や自分の家族と重なる部分があるから
ラストの展開にものすごいカタルシスを覚える。

人が抱える多くの悩みは人間関係に集約され、
その人間関係のベースは幼少期の親(親的な存在)に形作られる。
そう聞くと「家族」というものが諸悪の根源という感じがするし、
実際、どこのご家庭もひとたびパンドラの箱を開いたら
魑魅魍魎、百鬼夜行が飛び出してきかねないだろうなと思う。

だから、ルビーが旅立つシーンで
「I Love You」と何度もサインを示し合う家族の姿に
涙が出てくるんだろうな。



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