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国之常立神(クニのトコタチの神)が拓く世界<上>(『古事記』通読⑲ver.1.13)

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。連載初回はこちら
※常立神(トコタチの神)についての6回目です。1回目はこちら

■『古事記』シーズン2の始まり

国之常立神(クニのトコタチの神)をもって、いよいよ『古事記』の神話はシーズン2に突入します。

シーズン1は、高天原を舞台とした、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)から、天之常立神(アメのトコタチの神)までの5柱の神々の物語でした。神名から見ても、「天」にはじまり「天」に終わっています。そしてこれらの神々は別天つ神ことあまつかみと呼ばれます。


神々分類3


天之常立神(アメのトコタチの神)が、別天つ神ことあまつかみの最後の神であることは、天之常立神(アメノトコタチの神)の誕生によって、別天つ神ことあまつかみの世界が閉じられた(=完結した)ことを意味します。


ちょっと原文にもどってみましょう。

『古事記』原文(シーズン1)
天地あめつち初めてあらはしし時、高天原たかあまのはらに成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
②次に、高御産巣日神(タカミムスヒの神)。
③次に、神産巣日神(カミムスヒの神)。
④この三柱みはしらの神は、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

⑤次に、国わかく浮けるあぶらの如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙あしかびの如く萌えあがれる物にりて成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂの神)。
⑥次に、天之常立神(アメノトコタチの神)。
⑦この二柱ふたはしらの神もまた、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

⑧上のくだり五柱いつはしらの神は、別天神ことあまつかみ
『古事記』原文(シーズン2)
⑨次に成りませる神の名は、国之常立神(クニのトコタチの神)。
⑩次に、豊雲野神(トヨクモノの神)。
⑪この二柱ふたはしらの神もまた、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

⑫次に成りませる神の名は、宇比地邇神(ウヒジニの神)。次、妹須比智邇神(スヒチニの神)。
⑬次に、角杙神(ツノグヒの神)。次に、妹活杙神(イクグヒの神)。 
⑭次に、意富斗能地神(オホトノヂの神)。次に、妹大斗乃辨神(オホトノベの神)。 
⑮次に、於母陀流神(オモダルの神)。次に、妹阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)。 
⑯次に、伊耶那岐神(イザナキの神)。次に、妹伊耶那美神(イザナミの神)。 
⑰上のくだり、国之常立神(クニのトコタチの神)より以下、伊耶那美神(イザナミの神)より以前をあはせて神世七代といふ。


■別天つ神を映す神世七代

シーズン2は、「⑨次に成りませる神の名は、国之常立神(クニのトコタチの神)。」(次成神名国之常立神)という一文から始まります。

シーズン1では、「成りませる神の名は」という形式で誕生が語られたのは、①の天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と⑤の宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)の二神だけです。
あとの神々は、「次~神」と記述されるだけです。

①も⑤も、「成りませる神の名は」の記述の前には、時の記述があります。①の天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、天地初発の時に誕生した神であり、⑤の宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジの神)は、国わかく浮けるあぶらの如くしてクラゲなすただよへる時に誕生した神です。

⑨の国之常立神(クニのトコタチの神)の記述の前には、具体的な時の記述はありません。
しかし、直前の⑧の記述が、最初の五神を別天神ことあまつかみとしてまとめたものであることから、国之常立神(クニのトコタチの神)は、シーズン1全体を受けて誕生した神であることがわかります。

そして、⑰で明かされるように、国之常立神(クニのトコタチの神)は、神世七代かみよななよの初代の神です。
天之常立神(アメノトコタチの神)の誕生によって、別天神ことあまつかみの世界が閉じられたのに対し、国之常立神(クニのトコタチの神)の誕生によって、神世七代かみよななよの世界が開かれました。

このように、天之常立神(アメノトコタチの神)と国之常立神(クニのトコタチの神)とは対称の関係にあります。

天之常立神(アメノトコタチの神)と国之常立神(クニのトコタチの神)との関係は、高御産巣日神(タカミムスヒの神)と神産巣日神(カミムスヒの神)の関係とは異なり、鏡像の関係にあることを以前に書きました。↓

そして、国之常立神(クニのトコタチの神)が、シーズン1全体を受けて誕生した神であることから、神世七代の世界は、別天つ神の世界の映しであることが類推できます。

図示するとわかりやすいのですが、高天原は二重構造になっています。

これが何を意味するのかが明らかになっていくのが、シーズン2です。


高天原の転写構造

ただし、上図は、国之常立神(クニのトコタチの神)の誕生で高天原が二重構造になったことを図示しているだけで、国生み以降のシーズン3で高天原がどのように描かれているかは、また別の話です。その話は、シーズン3のお楽しみとさせて下さい。


■神世七代研究の現状

さて、神世七代の神々がどういった神々であるかについては、定説がありません。主立った説は3つですが、どの説にも有力な批判や矛盾点があるのです。

これまでの連載では、先行研究から妥当と思われる解釈を採用し(その場合は典拠を示しています)、また、整合性が合わないと思ったところは論拠を示した上で自説を主張してきました。

しかし、神世七代の解釈は、先行研究がどれも無理筋であるように思われるため、参考にしてはおりません。
だからといって、私の解釈のみを示してしまっては、それが定説であるかのように受け取られてしまう恐れがあります。
研究者や学生だった場合、恥をかかせてしまう事態を招きかねず、それは絶対に避けねばなりませんので、以下に主な先行研究をご紹介します。


■婚姻準備説

最初にご紹介するのは、神世七代の神々は、イザナキ・イザナミの婚姻に至る準備の歴史とみる説です。私は「婚姻準備説」と呼んでいます。

倉野憲司(校注)『古事記』(1963年、岩波文庫)や、中村啓信(訳注)『新版 古事記』(2009年、角川ソフィア文庫)がこの説です。

それぞれの注釈を列挙すると次のようになります。丸で囲んだ数字は神世七代の第N代であることを表します。<カッコ>は神名の意味です。

◆婚姻準備説
①国之常立神(クニのトコタチの神)
 <国土の根元神(倉野)>
 <国土の定立の神格化(中村)>
②豊雲野神(トヨクモノの神)
 <豊は美称、雲は虚空の象徴、野は台状の大地形成の象徴を神格化(中村)>倉野は註無し。
③宇比地迩神(ウヒヂニの神)、須比智迩神(スヒチニの神)
 <泥や砂の神格化(倉野)>
 <ヒヂ/ヒチは土・泥の意で土地神(中村)>
④角杙神(ツノグヒの神)、活杙神(イクグヒの神)
 <名義不詳。杙の神格化か(倉野)>
 <クヒは土地造成用の杭であり、その神(中村)>
⑤意冨斗能地神(オホトノヂの神)、大斗乃弁神(オホトノベの神)
 <居所の神格化か(倉野)>
 <「と」は戸・門で家屋の象徴神。>
⑥淤母陀琉神(オモダルの神)、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)
 <人体の完備と意識の神格化か(倉野)>
 <「おもだる」は男神が女神の容貌を賛美する語。「あやかしこ」は女神が「もったいないことを」と答える。(中村)>
⑦伊耶那岐神(イザナキの神)、伊耶那美神(イザナミの神)
 <たがいに誘い合った男女の神の意で、夫婦(倉野)>
 <誘い合う意の男女(中村)>

①国土→②大地→③土地→④宅地→⑤家屋→⑥出会い→⑦性交に至る男女の象徴、という流れです。

この説に対しては、神野志隆光が、高天原の神々であるはずなのに家屋などを象徴するのはおかしいとして批判しています(『古事記とはなにか』講談社学術文庫p.87等)。

私も、仮にこれらの神々が国土や大地や家屋を予祝する神なのだとしても、それらが性交に収斂されていくというのは、国土や大地や家屋を性交の道具立てとしてのみ捉えていることになり、首肯できません。

それに、国之常立神(クニのトコタチの神)を国土の神としてしまっては、天之常立神(アメのトコタチの神)との整合性がつきません。
実際、倉野は、天之常立神(アメのトコタチの神)を「天の根元神」としていて、「常立」の説明を放棄しています。
中村は、「天の定立を神格化した神」としていて、いちおう「常立」の説明にはなっていますが、『古事記』が「天地初発」から書き始められていることや、別天つ神の最後が天の定立になることの説明はなされていません。


■進化論説

婚姻準備説の批判者である神野志隆光や、金井清一「神世七代の系譜について」(『古典と現代』49号、1981年9月)は、神世七代を、姿形の無かった神がだんだんと身体を整えていく過程であると解釈しています。私はこれを「進化論説」と呼んでいます。

これについての註釈を列挙すると次のようになります。
神野志隆光の解釈は、上記『古事記とはなにか』講談社学術文庫(2013年)(原本はNHK出版『古事記をよむ』1993年)および山口佳紀との共訳・校注の小学館「新編日本文学全集『古事記』」(1997年)から抜粋しています。

◆進化論説
①国之常立神(クニのトコタチの神)

 <生成のための根元的空間(金井)>
 <「国」をつくる神々を生成するための場(神野志・山口)>
②豊雲野神(トヨクモノの神)
 <未生以前の混沌状態(金井)>
 <生成の具体的な場(神野志・山口)>
③宇比地迩神(ウヒヂニの神)、須比智迩神(スヒチニの神)
 <神の原資(金井)>
 <ヒヂ/ヒチは神の身体の原質(神野志)、伊耶那岐神・伊耶那美神の身体形成の過程を表す(神野志・山口)>
④角杙神(ツノグヒの神)、活杙神(イクグヒの神)
 <神の最初の形(金井)>
 <「くひ」はあらわれ出ようとする最初の形(神野志)、身体の原型のきざし。「角」は芽生える形を表し、「活」は生命力に溢れる意(神野志・山口)>
⑤意冨斗能地神(オホトノヂの神)、大斗乃弁神(オホトノベの神)
 <神の性的部位具有(金井)>
 <トは性的部位。ヂとベは男女の意(神野志・山口)>
⑥淤母陀琉神(オモダルの神)、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)
 <神の形態完成(金井)>
 <「おもだる」は身体の完備で、「あやかしこ」はそれに対する畏怖(神野志)>
⑦伊耶那岐神(イザナキの神)、伊耶那美神(イザナミの神)
 <神の作動開始(金井)>
 <誘い合う意の男女(神野志)>

①抽象的な場→②具体的な場→③身体の原資→④身体の原型のきざし→⑤性器→⑥形態の完成と賛美→⑦誘い合う男女、という流れです。

チャールズ・ダーウィンが『種の起源』(1859年)で「進化論」を提唱するより1,000年以上も前に日本では『古事記』で進化論が唱えられていたという大胆な仮説(←もちろん、神野志氏自身は、そんなこと一言も言っていません。個人の感想です)ですが、私は首肯できません。

なぜなら、この説を採用することは、進化の途上でありかつそれ以上進化しない神の存在を認めることになるからです。そのような神をどう信仰せよというのでしょう。もちろん、このような性質を持った神々は、日本の神話には見当たりません。

別に、『古事記』の「神世七代」にだけ登場する性質の神々がいてもよいのですが、この説にはもう一つ大きな欠点があると私は思っています。

それは、例えば、③泥→砂(粒が大きくなる)や④静止している形→動き出した形(静→動)のように、男性神の進化形に女性神(妹)が位置づけられているからです。

男尊女卑ならぬ女尊男卑だから問題だと言っているわけではありません。
神世七代の後五代は、男女あわせて一代とされています。男性神の進化形が次に誕生した女性神であるならば、あわせて一代と数えずに、男で一代、女で一代と数えるのが自然です。
そうなっていない以上、神世七代の男性神と女性神は、並立の関係と捉えなくてはなりません。

進化論説もまたあり得ないと思います。


■依り代説

現在、学問の世界で有力とされているもう一つの解釈があります。神世七代の後五代の神々を、一対の依り代であるとするもので、私は「依り代説」と呼んでいます。

これは、井出至「『古事記』冒頭対偶神の性格」(『論集日本文学・日本語1上代』1978年、角川書店)が提唱するもので、西宮一民などが支持しています(西宮一民『古事記の研究』(1994年)おうふう)。

この説の解釈を列挙します(西宮前掲書のまとめを採用)。

◆依り代説
①国之常立神(クニのトコタチの神)

 <国土の土台(床)の出現(井出)>
②豊雲野神(トヨクモノの神)
 <活力の象徴である雲気の湧き漂ふ生気に満ちた始原の野(井出)>
③宇比地迩神(ウヒヂニの神)、須比智迩神(スヒチニの神)
 <防塞神の依り代としての盛り土(土地〔農地・宅地〕の占定)(井出)>
④角杙神(ツノグヒの神)、活杙神(イクグヒの神)
 <防塞神の依り代としての棒杭(居所〔聚楽・住居〕の占定)(井出)>
⑤意冨斗能地神(オホトノヂの神)、大斗乃弁神(オホトノベの神)
 <防塞神の依り代=神像としての門に立つ男女像(男性・女性の誕生)(井出)>
⑥淤母陀琉神(オモダルの神)、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネの神)
 <防塞神=生産神の神像としての男女像(男性・女性の誕生)(井出)>
⑦伊耶那岐神(イザナキの神)、伊耶那美神(イザナミの神)
 <生産神としての男女像(媾合生産への誘ひ)(井出)>

西宮は前掲書で、「婚姻準備説」と「依り代説」とを比較し、前者を否定することで後者を支持していますが、前者の否定理由は「進化論説」の否定理由としても通じます。

具体的には(以下、前掲書p.305より)、
③は、「ドロだけでは何のことだか分からない」が、一対の「盛り土」と解すると民俗に照らして納得もゆく。
④は、「婚姻準備説」(と「進化論説」)は、神名の核を「角」と「生」に求めているが、神名構成法からすると「杙」に求めている「依り代説」の方が一般的である。
⑤は、両説とも同じだが、⑥は、会話の神格化であるより、「依り代説」の防塞神像が、満足顔の男もしくは男根の形象化と畏怖の顔の女もしくは女陰の形象化と解した方が一貫性がある。
⑥は、「依り代説」は明日香村出土の男女抱擁神像の如き道祖神像からの示唆が具体的である。
というのが支持理由です。

西宮一民の「婚姻準備説」(と「進化論説」)の解釈に対する否定理由は、大変説得的で私は支持します(③④⑥)。しかしながら、否定に対する対案の「依り代説」には首肯できません。神ではない依り代を神とする必然性がわかりません
また、なぜ防塞神(村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神。道祖神)の依り代が神世の七代にわたっているのかについての説明が不足しています。


■3説のまとめ

以上の3説をまとめると次のようになります(クリックで拡大↓)。

図1

そして前述のように、現状有力とされる神世七代の解釈3説すべてに問題があります。(以下の表の○△×は、学者による相互の批判を踏まえた私個人のジャッジです)

図2

どの説にも一長一短があり、それどころか、どの説にも共通する問題点があります。
3説全てに共通する問題点は、天之常立神(アメのトコタチの神)と国之常立神(クニのトコタチの神)との関係に一切触れていないことです。

『古事記』研究で確固とした実績を多数お持ちの名だたる学者の研究による説のどれもに問題があるのは、三段論法的な仮説を嫌う国文学の手法にも遠因があるのではないかと思わないではありません。

その意味でも『古事記』は、最古の文学であるよりは、最古の聖典であるような気がします。聖典であれば、社会科学的な仮説構築(≒神学的思考)も許容されるでしょうから。

天地初発からの文脈から神世七代を見た時、そこにはどのような神々の物語が現れてくるのでしょうか。

次回以降、私のつたない案内ではありますが、それらについて皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。

<下>に続きます

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※タイトル写真は、Santa3によるPixabayからの画像
ver.1.1 minor updated at 2021/3/3(誤植を修正し、3説に共通する問題点を示す一文を追加した)
ver.1.11 minor updated at 2021/7/13(目次を追加)
ver.1.12 minor updated at 2021/7/31(項番を⑱→⑲に採番し直し)
ver.1.13 minor updated at 2021/12/29(ルビ機能を適応しました)

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