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残らない写真展 -プロローグ-

何年前だったか、写真とは何か?の質問に「残すこと」だと、30年以上写真をやってきた師匠が答えてくれた。
その言葉はクサビみたいに留まって、それまでもそれからも、ウェディングフォトグラファーとして目の前で起こる誰かの人生のドキュメンタリーを写真に「残して」これた。
あー写真を撮るのって本当にいい。幸せなドキュメンタリーはやめられない。

これまでの16年間はずっと依頼を受けて撮らせてもらって続けてこれて、本当に有難いことだ!
もちろん、うまくいかなくて全然喜んで貰えなかった仕事も多々あり、もしこれを読んで不快に思わせる方がいらしたら全力でお詫びしたいが、僕なりに相手にとっての大事なものや重要なことは何かを考えて、「残す」ことを真面目に考えてきたつもりでいる。

誰かの依頼に答えて、望まれる写真を撮る。その人の役に立てる写真が撮れて無事に喜んで貰えた時は、今でもいつもほっとして、やってて良かったと思う。
22歳の頃、写真で有名になりたいなどと随分自分勝手な動機で写真の世界に飛び込んだ自分にとっては、大きな変化だ。

でも先日、色々なことが重なり、ずっと自分の中にあったジレンマのようなものが風船みたいに大きくなって、目の前の道を塞ぐことになった。

「自分」としてはどんな写真が?

売れる売れない、良い悪いではなくて、これは僕自身の問題だ。

僕の写真なんて一枚をひらりと落としたら一瞬で埋もれる。コツコツと収集した写真家らしい活動もない。ずっとどこかで分かってはいたが、写真家としての資産を考えるとひどく弱い気がした。
分かってはいたけれど、やはりその壁の大きさにどっきりとして凹んだ。しばらく数日のあいだ悶々とした。

自分の意見を持つこと。独りで立つこと。重要な答えの出ない物事に対してしっかりスタンスを持つこと。生き方をコントロールすること。勇気を持つこと。自分の中にアートを持たなくては。むー。

手始めに自分がこれまで大事にしてきたことを壊そうと思った。やはりこういう時は思い切って真反対から考えなくては。何だろうとしばらく考えたあとにハッとした。

「残らない写真」

そうだ。「残らない写真」と言うのはどうだろう‥。
その瞬間、自分から出た言葉にドキリとして全身から汗が出た。
2019年8月の蒸し暑い夜。東京池尻からの帰り道、高速道路を支える柱の下にいた。

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