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「おクーポンはございますか?」 間違っていても、正しくなくても。そこに生きている言葉の力について。

誤った使い方が一般化してしまった言葉、というのが最近気になっている。

「敷居が高い」は「ハードルが高い」と似たイメージで使われがちだが、本来は「不義理なこと、面目ないことがあってその人の家に行きにくい。敷居がまたげない」という意味。

「役不足」は「自分の能力が足りない」という解釈で使う人が多いが、「能力に対して役が軽すぎる。自分にはこの役目では足りない」というのが本来の意味。

どれも言われてみれば「ほう、そうだったんだ」と思うけど、この「現代では誤った使われ方が一般的ですが、本来は違う意味なんですよ」という指摘にどれほどの意味があるのだろう、と最近よく考える。

現代ではほとんどの人が間違って使っているのなら、本来の使い方をしても多くの人に違和感を抱かれるかもしれない。それならばと今の用法に則した使い方をしたら、博識な人から「その使い方、間違っていますよ」と指摘されるかもしれない。
両方のリスクを恐れてたどりつくのは、「この表現は避けておこう」という結論。それこそが、言葉の死なんじゃないだろうか。

SNSやnoteを書くときも、できるだけ伝わりやすい言葉、簡単な言葉を使おうと心がけながら「いまこの瞬間に日本語が滅んでいるんだな」と思う瞬間がある。
ほんとうは「平易な」と書いていたところを「”簡単な”のほうがわかりやすいか…」と打ちなおす瞬間に、「私はいまだれかが”平易”に触れる機会を奪ったんだな」とちいさく震える。

わかりやすさと正しさは、豊かな言葉を殺していくのかもしれない。

そんなことを考えていた矢先に、天啓のように飛び込んできた一節があった。

「おクーポンはございますか?」

永井玲衣さんの哲学エッセイ「水中の哲学者たち」の一節だ。

「おクーポンはございますか?」

おクーポン。わたしは感動で目を開く。ネット上で「おデバイス」や「ごPDF化」という言葉を見たことはあるが、おクーポンは初体験だ。響きも抜群にいい。群を抜いている。声に出して読みたい日本語だ。

過剰敬語とは、言葉の使用法の無知というよりは、不自然さを犠牲にして、相手に誠意を見せようとする力技ではないだろうか。こんなにも言葉を痛めつけてまで、わたしはあなたに篤実であるということを伝える行為だ。そして、その行為の是非は別にして、わたしは負荷をかけられてしまった言葉の生命力が好きである。この言葉はむしろ、生きている。

「おクーポン」もそうだ。どこかで「間違い」や「失敗」を予感しながらも、自分に正直に、世界に切実に立ち向かって投げる決死の言葉。
これも一つの孤独な賭けである。

「水中の哲学者たち」晶文社

「おクーポン」
なんど繰り返しても、いい。あきらかに間違っているのに、なんだか愛すべき響きだ。
何度もこの文章を読んでいるうちに、私は元気がでてきてしまった。

間違っているかもしれない。誰かに訂正されるかもしれない。
それでも、決死の賭けで放つ言葉がだれかを振り返らせるのなら、そこに意義はあるのかもしれない。

正しさだけではなく、いまを生きている言葉を。
そのときの自分がもてる精一杯の言葉を、放とう。

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