成長教から考える肥大と収縮のサイクル

『夫は成長教に入信している』が人気です。

誰もが陥ることのある若い熱情に「待った」をかける作品です。
すごく揺さぶられました。

(こっちのバージョンもすごく哀愁があってすきなんだよね……)

この作品の命題は、不幸を呼び寄せる成長教を脱することが目的です。
時代に醸成されたよくわからない基準を追いかけずに、ただ生きればいい。そう言いたげな妻は冷たいようですが、これもひとつの包容力なのでしょう。

できることならその助言に従って、すぐにでも「成長」をあきらめるべき。

しかし、完全にそれが実現されることはないとも考えています。

なぜかって、再生するものだからです。

成長教的な思考や、根拠のないプライドといったもの。
エゴに起因する思い込みの数々は、外的要因で粉砕されても、プラナリアがごとく容易に再生します。それを見つけ次第叩き潰す、そんな日々です。
Webにはびこるキラキラ、蹴落とし合い、地下鉄のエスカレーター、またはカフェの井戸端会議で聞こえてくるちょっとしたフレーズ。
そういうのの蓄積が首をもたげてやってくるわけです。
土曜日にズボラを極めた翌日の、日曜の朝なんかにね。

承認欲求もしかりですが、結局のところ、抗いがたい人間の本能です。

だから私は、成長マインドへと向かう自我の肥大と、享楽をよしとするズボラワールドへと向かう収縮を、ある程度のサイクルで繰り返していくしかないと思います。

誰かがうらやましくなって、ちょっと活動を始めてみたりしちゃって、消耗してるタイミングに、こういうコンテンツで少しブレーキをかけて。だらしくなくなってゲームに溺れて、昏いWebの深層でああだこうだと憂いて。底まで手がついたら、開き直ってまた折り返して……

意識の高さも、ちょっとした体調変化のようなもの。
一周回って、そういうのが気楽なのかもしれないと考えました。

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