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終わりの日

キリストの携挙ー9・終わりの日

前回の「キリストの携挙―8・モーセが見た中天の世界」からの続きです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
聖書には、人類の終末の教えの中で「終わりの日」「終わりのとき」という言葉、ワードが頻繁に出て来ます。そして「終わりの日」「終わりのとき」について、キリスト教会では、また YouTube の牧師先生方は、

携挙が終わった後に来る「艱難時代以降の期間」あるいは「再臨が終わった後の最後の期間」

と教えていますが、それは誤りです。間違いです。

確かに「終わりの日」という言葉から受けるイメージが感覚として「終わりの日」だから「人類が終わる日」と解釈しやすいですが、それは誤りです。間違いです。

聖書に書いてある、キリストが語っている、使徒たちが語っている、「終わりの日」とは、

キリスト信仰による「恵みの時代が終わる日」という意味です。

十字架信仰による「教会の時代が終わる日」という意味です。

携挙が終わった後に来る「艱難期が始まる日」ではありません。

今現在、クリスチャン、キリスト教会が置かれている「恵みの時代」が「終わる日」という意味です。

これから来るのではありません。今ある「恵みの時代」が「終わる日」です。

そしてクリスチャンと教会の恵みの時代が終わる日が「携挙の日」です。

クリスチャンが地上から携挙された時点で恵みの時代が終わります。新約のキリストの時代が終わります。携挙で地上にクリスチャンがいなくなったので、そこからサタンを裁くための七つのラッパが吹かれて「大患難時代」に入ります。ですから「終わりの日」は「キリストの携挙の日」です。

終わりの日→キリストの携挙の日→携挙が終わって教会の恵みの時代の終わりの日→七つのラッパによってサタンが裁かれる大患難時代に入る→再臨

という流れです。このことは後でさらに詳しく解説していきます。
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キリストと使徒たちが預言する「終わりの日」は携挙前に起こること、携挙そものに起こること、携挙の後に起こることの、三通りに分けて預言されています。携挙前・携挙・携挙後の三通りの預言をまとめて「終わりの日」と定義されています。

「終わりの日」はこれから来るのではありません。今ある「恵みの時代」が「終わる時」が「終わりの日」です。そしてクリスチャンと教会の恵みの時代が終わる日が「携挙の日」です。

この「終わりの日」をどう解釈するかで携挙神学がまったく180度変わって来ます。

以下に「終わりの日」が書かれている聖書箇所を挙げて解説していきます。

携挙前後の時系列

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終わりの日

ヨハネの福音書6章
6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

・終わりの日(携挙の日)にはキリストの復活のいのちによって過去の死んだ全人類の信仰者がすべて甦ります。

6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

・終わりの日(携挙の日)には父なる神を礼拝する信仰者は子なるキリストによって甦ります。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

・キリストのパンと葡萄酒の聖餐に与って死んだ信仰者は終わりの日(携挙の日)にキリストの永遠のいのちによって甦ります。
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ヨハネの福音書11章
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

・キリストの甦りのいのちを信じる者は死んでもキリストのいのちによって終わりの日(携挙の日)に甦ります。
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ヨハネの福音書12章
12:48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

・キリストを拒み、キリストのことばを受け入れない者は、終わりの日(携挙の日)に携挙されないで地上に取り残されます。「さばく(裁く)」とは「区別すること」です。携挙される者と地上に残される者を裁定して「区別すること」です。
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使徒の働き2章
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
2:19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる

・終わりの日(携挙の日)が近づいて来たら老若男女問わず社会的立場に関係なく牧師信徒関係なくすべての信仰者にキリストの霊が注がれて人類最後の大リバイバルが世界の起こります。そしてキリストが福音書で預言した「太陽は闇に、月は血に変わる」ときが来ます。

「主の大いなる輝かしい日」は婿なるキリストが花嫁なるクリスチャンを迎えに来る「主の大いなる輝かしい日」です。キリストは映画・レフト・ビハインドのように誰にも見つからないようにコソコソと盗戸のように隠れながらある日突然花嫁を迎えに来るのではありません。

なんで、最初で最後の永遠に一度の創造主なる神の子の結婚式を、罪人相手にコソコソ隠れてしなければいけないのでしょうか???

キリストの結婚式である携挙は堂々と全世界の人々の目に焼きつけて有無も言わせず圧倒するように御使いを引き連れて雲とともに携挙に来ます。だから「主の大いなる輝かしい日」なのです。携挙は永遠に最初で最後のキリストの結婚を祝う門出の日だから特別な「主の大いなる輝かしい日」なのです。その「主の大いなる栄光の輝き」を、世界中の人々は目の前で目撃します。
ヨハネは黙示録の世界で実際に「主の大いなる輝かしい日」の光景を見た!!!のです。だから黙示録1章の冒頭で

1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。

と七つの教会に書き送りました。はじめに「見よ!」と書いたのは黙示録の世界でキリストの携挙の場面を本当に現実にリアルに見たから「見よ!」と叫んでいます。ですから黙示録のどこかに「携挙の場面」が必ず出て来ます。実際「携挙の場面」が出て来ます。
「・・・すべての目が彼を見る。」とは「全世界の人々がキリストの携挙を目の当たり」にします。「・・・彼を突き刺した者たちさえも。」とは「二千年前に十字架刑でキリストに槍を突き刺したユダヤの血筋を受け継ぐ「現代の不信仰のイスラエルの人々も」キリストの携挙を目の当たりにします。「地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。」とは携挙によって地上に残された「不信仰のイスラエルと世界の国々の異邦の民」は絶望して胸をたたいて悲しみます。
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Ⅱテモテへの手紙3章
3:1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。

・終わりの日(携挙の日)は「困難な時代」に来ます。だから予め「承知していなさい」とパウロは教会に警告しています。「困難な時代→携挙→大艱難時代」という順番で来ます。携挙は今の日本のお花畑の平和な時代には来ません。戦争と経済の崩壊による世界が困難な時代に来ます。ダニエル70週預言の終末の7年の艱難期の前半の三年半の最後に来ます。そこで携挙が来て地上にすべてのクリスチャンがいなくなったので(自称・クリスチャンは残されますが)サタンを裁くための後半三年半の大患難時代に入ります。
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ヘブル人への手紙1章
1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

・旧約時代の預言者によって語られた多くの「終末の預言」がキリストの言葉によって次々と成就されていきながら、携挙が来る「恵みの時代が終わる時」まで使徒たち(クリスチャン)によって証しされていきます。
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Ⅱペテロの手紙3章
3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、
3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」

・終わりの時に(携挙が近づいた時に)、嘲る者たちが現れて嘲り(携挙を待っているクリスチャンたちって頭大丈夫な人たちなの?と嘲けられ)、(これから大変なことが起こることも知らずに)自分たちの欲望に従いながら、「彼の来臨の約束(携挙の約束)はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」と言ってクリスチャンをバカにします。
ここでペテロが言っている来臨の約束は「再臨」ではありません。「携挙の約束」です。使徒の働き1章11節で二人の人によって弟子たちに預言された「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」という「携挙の約束」のことをここで「来臨の約束」とペテロは言っています。
黙示録19章の再臨の前にはすでに携挙が終わって七つのラッパが吹かれて世界が「創造のはじめからガラッと変わった世界」になっていますから、再臨を前提にして「・・・父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」なんて言うはずがありません。「すべてが創造のはじめからのままではないか。」というのは地上の世界にまだ携挙のしるし、前兆が現れないから、ユダヤとローマをはじめ不信仰者たちが携挙を待っているクリスチャン向かって自分たちの欲望に従いながら「彼の来臨の約束(携挙の約束)はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」と言って嘲っています。ですからここでペテロが言っている「来臨の約束」とは「携挙の約束」です。黙示録19章の「再臨の約束」ではありません。
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Ⅰヨハネの手紙2章
2:18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。

・ヨハネがここで呼んでいる「反キリスト」とは二千年前の当時の使徒たちと信仰者を迫害するユダヤとローマを指しています。キリストの教えに反発してキリスト信仰者を迫害するユダヤとローマを「アンチ・キリスト」と呼んでいます。黙示録に出て来る反キリストは頭に666の数字を被った「666の反キリスト」です。

ヨハネの黙示録13章
13:18 ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。

ヨハネはここで今にも直ぐ携挙が来るような切迫したニュアンスで「・・・今は終わりの時です。」「・・・それによって、今が終わりの時であると分かります。」と言っていますが、実際に彼らの時代に携挙は来ませんでした。これは、先ほどの使徒の働き1章11節の二人の人による「キリストの来臨の預言」を信じていたので、「その時点」では使徒たちは自分たちが生きている間にキリストが携挙に来ると信じていました。しかし後にヨハネはパトモス島の牢獄から天に引き上げられて黙示録の世界を見せられてはじめてキリストの携挙は二千年後の人類の終末に来ることが分かり、携挙について地上の七つの教会に手紙を送り、また、他の使徒と信徒にも携挙の時期について書き送りました。そのような経緯の中で、ヨハネは

2:18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。

と教えています。これはⅠヨハネの手紙だけではなく他の使徒たちの手紙の中にも「もう間もなくキリストの携挙が来る!」との認識で書かれているケースがよく出て来ます。

ヨハネの黙示録13章
13:18 ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。

ヨハネがⅠヨハネの手紙2章で言っている「反キリスト」とは二千年前の当時の使徒とクリスチャンを迫害するユダヤとローマを指して「反キリスト」と言っています。黙示録に出て来る反キリストは頭に666が付いた他の反キリストとは格が上の「666の反キリスト」です。
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ユダの手紙1章
1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」

・「終わりに日(携挙の日)」が近づいたらクリスチャンは不敬虔な不信仰者たちから嘲られます。バカにされます。ヤバイ人扱いにされます。

「終わりの日」はこれから来るのではありません。今ある「恵みの時代」が「終わる日」です。恵みの時代、教会の時代を終わらせるために婿なるキリストが花嫁なるクリスチャンを迎えるに来る「携挙の日」です。
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次回の「キリストの携挙ー10」に続きます。
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引用・聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
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