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”それはとても青く。”感想/ついに語られ、そして失われたもの

本イベントシナリオのテーマは大きく二つあった、というより終盤でもう一つが合流するように追加されたと理解している。

メインのテーマは「シーズというユニットの意義」に集約されるだろう。冒頭、ステージ上のダンス演出が原因で(医者の話ではそれよりも前、おそらくは練習中から)足を痛め、療養を余儀なくされる。ユニットとしての活動が一時的に不可能になることで、逆説的に相方とのコミュニケーションやその存在について考える機会が与えられた、というのが本イベントシナリオの導入としては適当だろう。正直、シーズというユニットはセヴンスによって(完全にではないにせよ)決定的に完成されたし、【短二度、一番線】や【羽根なしたちの長い日】、【overlap】、(私は歴史的駄作であると信じるものの)「not enough」などにその後の「馴れ初め」を確認することができる。よって、今更そこ(ユニットという関係の安定性)を再考するという方向自体が蛇足に思えてならないのだが、一旦そこは受け入れてテーマを追っていきたい。

さてこの「機会」において、例えば美琴はにちかの代打としてバラエティに出演しその適性のなさを痛感する場面があるが(このくだり長くない?)、

同じ場面で、中盤以降の舞台装置となる『プロアマ問わず!ダンス決定戦』のポスターに興味を示していたところ番組Dに声を掛けられ、彼が言外に示すにちかのステージパフォーマーとしての能力に対する揶揄(あるいは自らのバラエティ適性のなさを指摘されたことへの反感と解釈できなくもないが、まぁ流石に棄却してよい)に反感を覚える。確立されたシーズの相互信頼関係を示すものとして、これは良いだろう(なにせ美琴側の視点は貴重である)。

一方にちかは、自らのケガのために本番ステージの完成度を損ねてしまったことを悔やみ、恐る恐る、電話越しではあるものの率直に伝える。もっとも感謝祭以降にちか→美琴の事実伝達は素直に行われてきたため新鮮な展開ではないし、休養のためとは言え自身の不在によるユニット関係の維持ひいては意義への憂いというのは、(セヴンスにおいて)より深刻な危機的状況にあって試され勝ち取られたものであることを鑑みると陳腐、食傷気味であるし、卓越的なダンス能力を持つ美琴に対して不相応な自分というコンプレックス、あるいは自らをアイドルと認める勇気もセヴンスやLPにおいて解決されたはずの問題だ。

もちろん、にちかは生来的にストレスを抱え込み、それが表れやすい体質であるし、過去に扱われたからと言ってそれが恒久的に解決された訳ではないということは可能だが、そのエクスキューズくらいは入れるのが丁寧な仕事というものだろう。扱いに困るからかは知らないがプロデューサーを冒頭でさっさと退場させたように、そのぐらいのことは出来たはずだ。

こうした提起が最終的に上手く料理されたか(まぁ、「されていない」というのが本記事の主張なのだが)は追ってみていくとして、細かい文句としては美琴の「咳」の一幕があまり有効に機能していない、というより必要な描写だったのかどうかはやや気になった。

これは「自分がアクロバティックな振り付けを提案していなければにちかはケガしていなかったかもしれない」という負い目から来るストレスに対する防御反応で、「モノラル・ダイアローグス」やGRADなどにも見られた描写だ。彼女の弁明の通りより良いステージ演出のために提案したのであり、(例のペンシルターンのようによほど危険なものでない限り)彼女が気に負う必要はない。……ので、そもそもこの原因を巡るくだりが全体に与える影響がないように思われる。別にあってもよい(し、そういう提案自体が良好なコミュニケーションの一例ではある)のだが、42分というごく短い尺の中でわざわざ言及するほどの価値があったのかは疑問だった。まぁ、別にそれは批判点としても本題ではない。

さて、物語のステージは例のダンス大会へと移っていく。出場にあたり、にちかはプロの振付師に協力を依頼し(プロデューサーへの無意味な八つ当たりのくだりは脈絡も意味もなくてただただノイズだった)、美琴はソロダンスを通じて描くビジョンに思い悩むも、飛翔をそこに表現しようとする。後述する物語の結論に結びつくものだ。

という話をしていたらある少女が唐突に登場し―――後にこの大会の覇者となるのだが―――これもまた唐突に彼女の口から飛び出した言葉によって「物語性」というテーマが本イベントシナリオに導入される。この大会はソロ出場であるため、本来デュオユニットのはずのシーズが別々に参加するという事実がいくつかの「物語」を産んでおり、注目を集めているという展開らしい。もっともSNSの声が彼女の発言に先行して(あるいは予兆という形で)この大会に「物語性」を導入してはいるし、この場面までに状況証拠的に積み上げられた大会の設定からは確かにそういう物語を連想することは可能ではある。

全然その衝撃を共有できねーんだわ

しかしながら、セヴンスを経験した我々にとってそうした「物語」はひどく陳腐なものであるし、そもそもにちかや美琴は大会にそういう「物語」を見出してはいなかったため、彼女の発言は驚かされこそすれ芯をついていないもののように聞こえる。ただし、後述するが「物語性はどこにでも宿りうる」という結論からすれば、こういう交通事故が起きるという展開そのものには論理的な問題はないと考えるし、彼我の温度差はとても気になるもののそれ自体が狙いだと主張することすら可能だと思う。

彼女のあからさまな挑発を受けた美琴は特に意に介さず、自身の過去を連想する。「実力に勝る物語」というテーマは美琴WINGで提示された極めて興味深いものでありながらLPまでついに満足に解決されることがなかったとも拙稿で指摘したことがあるが、事ここに至って唐突に取り上げられたことの衝撃を追い越した困惑はいくらか分かってもらえるのではないだろうかと思う。続く台詞で「勝手に作られるし止められない」とこともなげに看破されることも衝撃ではあったが、「ステージはちゃんと冷たい」、すなわちシーズが立つべきステージという場所においては、観客の目線ひいては芸術への批評はそうしたバイアスの影響を受けないはずだという主張は怜悧で、価値ある気づきを提供できるものである。

いや分かってないじゃん。分かる?つまりは「あなたの活動は正しく報われるはずだ」という救いであり、同時に「これまであなたが報われていなかったのも正しい批評判断だ」という突き落としでもあるんだけど、その重み分かってんの?また1年後とかに思い出したように蒸し返さないよね?

このプロデューサー、女将じゃないですか?

「物語性」に拘泥しない、だから気に留めないというのならそれは論理としては正しいかもしれないが、じゃあその「ステージ」を他人の適当な回想で片付けたのは何なんですか?not enoughの演劇と全く同じぞんざいさですけど、彼女らの魂が賭けられる場所であるところを描こうと言う気概はないんですか?「物語性」に拘泥しない、という彼女たちの選択を、あなたがた「アイドルマスターシャイニーカラーズ」という「物語/ステージ」で物語るという矛盾には(他ユニットのように)向き合ったんですか?

あさひ感謝祭のごく単純な配慮がこんなにも大事だったとは

その小学生で卒業するべき負け惜しみに絡めて神格化からの脱却やビジョンの共有をまとめて謎空間ポエムにするのマジで安いけど、ステージに生きるアイドルとして描いていくというなら、そのポエムの主張をダンスで表現させるのが一貫した論理、書き手の役目なんじゃないんですか?セヴンスは「手を握る」というごく小さな身体動作を通して見事にダンスの視覚的表現の描写と物語上の様々な人物とテーマの重ね合わせをやってみせた訳ですけど、そういう努力はされたんですか?私にはそうは思えない。

総評

良かった点
・初期からの問いに回答した
悪かった点
・そもそものテーマが食傷気味
・進展をもたらしうる示唆に富む発言を深く検討しないまま使い捨てている
・「物語性という呪縛からの脱却」という回答は、聞こえはよいが、その姿勢は徹底されておらず、物語がそれを語るところの責任からも逃げているように見える
・今更キャッチボール(直球)が下手って言いだすのも安いねん

引用

アイドルマスターシャイニーカラーズ
【シーズLP】私は何を求め、返されたか(前編)
【シーズLP】私は何を求め、返されたか(後編)

©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.
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