【三文ノワール】感想
本記事は現在開催中のガシャで入手できる【三文ノワール】の感想その他をまとめたものになります。もともとは私が毎年書いている「Pカードベスト10」記事内の一部にする予定でしたが、ちょっと文量が多すぎるので独立化させることにしました。もともとの記事の方は今後の一か月で私がくたばってなければ公開されるはずなので、気が向いたら暇つぶしにでもしてもらえればと思います。以下本題。
一言で言えば出演オファーを受けた映画が上映されるまでを描いたお話なのですが、これもメタ的・二面的な読み方が出来るというか、むしろそれを要求してさえいるのが本カードでしょう。また冬優子よろしく「二面性」といいつつ綺麗に二値分類しきれない話をやっているのもニクい。
店内で推し活のあり方で鍔迫り合うドルオタの男女。そこそこ重たいやり取りのはずではあるものの「ユメち同盟」の微笑ましさにしろこの後の会話にしろ若干コメディっぽくもなっていて、嫌いじゃないですね。
「紅茶が冷めた」という台詞を皮切りに(このときの目線と、驚いて何か言いかける唇の動きも細かい)、先ほどのドルオタたちとオーバーラップするかのように今後について思案するふたり。
衣装まで同じなのは徹底していますが、この会話と台詞運びは完全に【オ♡フ♡レ♡コ】Trueを意識しています。この「他人事ではない」という念押しは勿論プロデューサーに向けられたものですが、同時にプレイヤーである私たちに対して向けられたものとしても機能します。ただ記事構成の観点から、このメタ視点は一旦脇に置いて内容を追っていこうと思います(※1)。
いつまで私たちはアイドル/Pで居られるか?この問いに対して、どの選択肢を選んでもプロデューサーははぐらかすような回答を返します。これはウォッチャー的には解釈違いなんですが、メタ的な視点を重視してこうなっているんだと思います。という訳でこれも後回し(※2)。
ひとつ飛ばしてコミュ3、映画監督による芸術と時間についての一考察。ただ消費されて忘れ去られていく世界とは違って、映画の中なら人々の記憶の中に生き延びることができるかもしれない……それが彼にとっての死への抵抗であると。もっとも映画だってせいぜい100年ちょっとの歴史でしかなくて、その中で今も残っているものやこれから残っていく可能性がどのくらいかという疑問はあるにせよ、熱い心の持ち主ですね。
諸行無常って言いますけど、すべてがいつかは死んでいく、終わっていくことって私は好きというか、安心するんですよね。といっても、死が怖くないとか、死は救済だとかそういうことを言いたいんではないです(そういう場合もあるとは思っていますが)。時間とか死とかにはすべてを相対化する効果(貧乏も金持ちも全員死ぬみたいな)があって、そういう不可避の相対化を見つめてなお求めるものには、特別な価値があると信じています。
アイドルもそうです。別にアイドルという職業(といっても幅広いですが)が何かほかの全ての職業に優越する普遍的な価値をもっている訳ではないですよね。たとえばアイドルが何人いたって、日々の買い物は出来ないし、商品は作られないし、私たちの家や道路や駅もなければ、ガスや電気やインターネットすら立ち行きません。すべての人が希望にもとづいた職業に就いている訳ではありませんが、なんらかの価値を見出してその職業を進んで選んでいる人もいる訳です。
それに歌いたいなら歌手の方が、踊りたいならダンサーの方が、演じたいなら俳優の方がいいかもしれない。アイドルもまたその他星の数ほどある道の中のひとつに過ぎず、アイドルには出来ないことを出来る道だけではなく、アイドルに出来ることをもっと専門的にやれる道すらある。
このような価値の相対化を受けて、それでもアイドルを選ぶなら(選ぶからこそ)、その選択には特別な価値がある。
ここでは「職業としてのアイドル」にスポットを当てて書きましたが、この「相対化された選択の価値」についての基本的な考え方はシャニマスの大部分に応用可能だと思います。
そういう意味では、ここも惜しかったですね。イベントシナリオ「Your/My Loveletter」もまた「相対化された選択の価値」のお話ですが、プロデューサーは彼自身の誇りある選択として裏方にいると語りました。かつてよく言われていた「自己評価が低い」というところから歩みを進め、それが彼の生きたい姿であるという意識とか、彼自身も選択するという意識が明瞭になったのかなと思っているので、「資格がない」というのは、惜しい。冬優子の演技力と進路に思考を取られていたところの不意打ちで動転ぎみという状況を勘案して許しましょう。
さて問題のTrueですが、試写会か本上映か、映画のあらましと冬優子の(メッセージボックスに表示されない)モノローグが流れます。
映画のあらすじは概ね以下のようなものです。
う~ん、メタファとかなんとかは置いといてなんだか妙な趣味を感じる設定ですね。結末については明確には描かれず観客の想像に委ねる形になっていますが、状況的には入水自殺したと考えます。
映画としては正しく映画監督の思想を反映した内容になっているのでしょう。芸術を時間に対する抵抗と考える彼は、義体による永遠の生ではなく自死による時間の停止を描いた。彼にとって本当に恐ろしいのは死そのものではなく時間による忘却だということは、その発言から何となく感じられるところ。そんな結末をどこか歯切れ悪く評価するプロデューサーに寂しく笑う冬優子を映し、コミュは終了します。
さて、ここでやっとメタファの話に入っていくのですが、まずこの映画は「冬優子のアイドル活動存続についての選択肢」を示唆するものです。寿命を対価に人々を救うユウコの姿は、「大衆に消費されるアイドル像」に概ね置き換えることが可能です。能力の行使ほど寿命を直接的に削る訳ではないでしょうが、無数の人々の雑多な欲望と視線に曝され続けるストレスも生半可なものではないでしょう。またコミュ1で彼女自身が発言したように、その人気も約束され続けるものではありません。人気の翳らないうちに引退するというのも一つの選択肢ではある訳で、それが自死に喩えられているのかなと。各話の暗転中の台詞がユウコの最後の台詞に一致するお仕事の丁寧さは、いささか悪趣味にすぎるとも思いますが。
また、エンディング直前のシーンから察するに、ユウコはその選択を主治医に伝えていないように思います。「選択についてパートナーの協力を得られない」という構図は、【三文ノワール】における冬優子とプロデューサーのやりとりに一致します。先ほど※2でプロデューサーがどこか他人事のように捉えているのは意図があるのだろうと書きましたが、ここに限らず本カードでは重要な場面で冬優子が孤独になるように徹底されています。
これまた【オ♡フ♡レ♡コ】からの引用ですが、このとき冬優子は俯瞰的に語るプロデューサーに対して当事者意識をもつことを要求しています。そのほか「共犯者」もそうですが共に「ふゆ」を作り上げるタッグであるという意識があるんですよね。そのぶん今回のように「タッグだとは言え結局私ひとりでやらなくちゃいけない・私しかやれないことはある」と理解は出来ても、寂しかったんじゃないかな。本当の所は同じ道を歩めない私たちの孤独、というのが【三文ノワール】のテーマのひとつだと解釈しました。
で、ようやく※1の件を回収できるんですが(疲れた……)、【三文ノワール】は「『アイドルマスターシャイニーカラーズ』そのものの存続について」とも読めるんですよね。【三文ノワール】のリリース日は11/13とシャニソンリリースの前日だった訳ですが、後継アプリの登場ということでシャニマスの今後について多くの方が思いをめぐらせたことかと想像します。
「シャニソンリリース後にアイドルマスターシャイニーカラーズというサービスを続けるかどうか」はバンナム側の経営判断によるしかないので外野が何言っても仕方ないと思いますが(株主ならともかく)、ファン側としてはサービスの利用を続ける、後継サービスに乗り換える、はたまた足を洗うなどの選択をするしかない。もちろんどれかに100で振り切らないといけないという話ではなくてグラデーションはありますが。この売り手と買い手の間にも、断絶が存在します。
私はというと、シャニマスというサービスの持続そのものにはあまり興味がありません。シナリオに魅了されてここまで熱中してきましたが、あくまで作品には終わりがあるべきだという思いは変わりません。
また、シャニマスでは時間が進むことがありません。真乃はきっとこの先ずっと16歳のままで、彼ら彼女らがどれだけ未来に思いを馳せようともその瞬間はやってこないでしょう。もちろん彼らはフィクションの存在ですから、時間の牢獄に閉じ込められようがそれに苦しむ実体はどこにもいません。でもそれは私にとって正しくはないのです。彼らには彼らの人生を送っていてほしい。それが架空のものであっても、誰に観測されないものだとしても。
良かったシナリオを語るという趣旨の記事で悪かったシナリオの話をしてもしょうがないので程々にしますが、4月~10月は私にとっては不作というか、とくに10月頭は正直辞めようかと思うくらいだったのですが、そんな直近の出来とは無関係にそう思っています。
さてこの場合、私はどの立場にいるんでしょうね。
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