「子供の感性で描こう」という呪いの言葉
「子供は誰でも芸術家だ。
問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。」
ピカソが昔言ったらしい。
今考えると
良くも悪くも呪いの言葉だ。
この言葉を胸に
子供の描く絵を追求した
芸術家が何人いるだろうか。
「ピカソもこう言っているんだ」と。
たまに流れてくる絵画youtuberの動画でも
誰かが言っていた。
「子供の描く絵が一番の芸術なんです」
といったニュアンスだった。
危うい布教の仕方だと思うし
そもそもの受け取り方が短絡的な気がする。
この言葉は「芸術」に特化した内容と
思われがちだが
実は別の領域に置き換えるとわかりやすく
なるかもしれない。
例えば「芸術家」の部分を「野球選手」と
してみる。
すると
「子供は誰でも野球選手だ。
問題は、大人になっても野球選手でいられるかどうかだ。」
となるが、普通に考えておかしい。
おかしいが
受け取り方によっては意味は通じる。
例えばこうだ。
「子供は誰でも(野球が好きという感性があれば)野球選手だ。
問題は、大人になっても(野球を好きでい続けられる)野球選手でいられるかどうかだ。」
どうだろうか?
確かにそれっぽい。
もしプロ野球選手を目指そうものなら
その道は熾烈だ。
それまでは好きで続けられていたとしても
挫折をしたり、野球を好きでい続けることが
できなくなることもあるだろう。
ただ、もしイチローがこのような
格言を言っていたとして
子供のころの感性に戻ろう!
と考える野球選手はいないだろう。
なぜなら野球がうまくなるためには
身体能力やスキルをアップさせることの方が
重要だということが明白だからだ。
しかし芸術の話になるとややこしくなる。
芸術に関しては
「感性」と「スキル」の関係性が複雑なのだ。
そしてここでピカソが子供の「感性」として
表しているのは
絵を描くときに「何かを意図しないこと」である。
子供は自由な発想が確かにある。
固定概念がなく
意図して線を描かない場合も多い。
ピカソが晩年目指した姿はここだと言われている。
しかしこれは
意図して絵を描けるようになったピカソが
ここを目指すから意味や価値が
生まれるのであって
自分の子供が最初から
「今がピカソの目指した状態だから大丈夫!」
と言い出したら
「プロになりたいなら練習しなさい」
と言うだろう。
ピカソの生存者バイアスたっぷりの発言に
気を付けなければいけないのは明白だ。
では誰が気を付けるべきなのか?
それは絵を上達させたい私のような人物である。
この文章はもはや自分自身に向けて書いている。
冒頭にこの言葉は呪いの言葉だと言ったが、
それはなぜかというと
絵が下手なことの免罪符にしやすいからだ。
技術の上達から目を背けさせてくれる。
「自分の絵が魅力的じゃないのは、
感性が磨かれていないからだ。」
逆に、
「子供のころの感性で描けたから、
色が濁って構図が魅力的じゃないけど
良い絵だ。」
このように現実逃避が簡単にできる。
そして悲しいかな
周りがそれを否定できない。
否定するリスクを負えない。
なぜならピカソの免罪符が
余りにも強いからだ。
野球であれば
明らかに投球フォームに難があれば
コーチが指示し改善していくのが普通だろう。
芸術領域ではそうではない。
免罪符を持っている人は
自分で気づくしかない。
自分で改善を求めていくしかないのだ。
ここで少し話をずらし
少し穿った見方をしてみよう。
ブランディング、ビジネスの天才のピカソの
観点からなぜあの発言をしたか?
仮説になるが
「土俵をずらした」のではないだろうか?
もしスキルから感性の領域に土俵をずらしたと
するならピカソはやはり天才だ。
絵の勉強を少しでもしていれば、
ピカソの絵が無勉強で描けるわけがない
ということは容易にわかる。
彼の代表的な絵は一般的に
具象画を描く画家よりは
「自分でも描けそう」と思わせる。
しかしいざ描こうとすると描けない。
言わずもがな、スキルが必要だからだ。
蜃気楼みたいな存在である。
そんなピカソが、
「子供のように描きたい」
ということで何が起こるか?
素人が「スキルはいらないのか?」
と思い込むのだ。
するとどうだろう。
認知のバグを起こした人たちは
スキルを上げることをやめ
子供のころの感性を思い出すことに
必死になる。
そうすると
その蜃気楼に永遠に触ることができない。
描けそうなのに描けない。
近くて遠い。
あぁ、ピカソは時代を超えて自分自身を
ブランディングし、
私たちの脳に直接仕掛けを施したのである。
プロの画家になるには
この呪いの言葉を
払いのけていかねばなるまい。
そしてスキルを上げ、そして感性と
向き合っていくことがきっと近道だ。
頑張ろう。
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