見出し画像

どこまでが自分の言葉なのか

的な話を書こうと思う。

ーーーーーーーーーーー
noteはUSBメモリっぽい
ーーーーーーーーーーー

最近は人生の小休憩をもらっているため
観たものや感じたことを
noteに保存するようにしている。
というのも
その時その瞬間に思ったことや感じたことを
1週間後には思い出せなくなってしまっているのが
寂しくなったからだ。

そして忘れないでいるためには
それを何回も反芻して
記憶に定着させなければいけないが
楽しい出来事ならまだしも
「なんとなくこう思った。」
程度のことをずっと考えるのを
もったいないと思う意識はある

そして文章にすることによって
自分の考えがまとまったり
まとまらなかったりするのだが
それもまた良かったりする。

文章に限らずだが
思っていることを吐き出すというのは
どこか脳や心のメモリに空き容量を作ることだなと
つくづく感じる。

noteはまるでUSBメモリのように
その時の考えを記憶させておくことで
保存することができる。
割とSNS全般そんな感じだが
特にそのイメージが強かったりする。

これをしないと
人に会ったときに考えをまとめたい欲求が強すぎて
一方的に話してしまうことになりかねない。
普通そんな人とは会いたくないはずなので
自分でセーブしておかなければ。

そしてまた新しいことを考える。
最近はその繰り返しである。

ーーーーーーーーーーー
なんとなく思うことが、それっぽい
ーーーーーーーーーーー

先ほど「なんとなくこう思った。」
程度のことをずっと考えるのを
もったいないと思うと述べたが
実際はこれが重要なんじゃないか
と思えてきている。

タイトルの話に触れていくが
自分から発する言葉というのは
きっとどこかで誰かが一度は
言っているはずであるし
どこかで耳にしたような言葉を
無意識的に発しているはずだ。

それも正しそうな言葉や
抽象的な概念であれば
その可能性はぐっと高まるだろう。
高尚な人間を目指すというのは
自己を薄めることに
つながるように思える。

最近はMBTI診断なるものが流行っていたり
自身の精神疾患について
公言していたりする人も見かける頻度が
多くなったように思う。

そういったものを見ていると
自分の行動や考えがどんどん切り取られ
分類されていることに不安や恐怖を抱いたりする。

自分自身の特性を切り取られ
カテゴライズされていった先に
何も残らなかったとして
そういう人間として生きていこう!
と思えるのか。

そもそも「カテゴライズする」の
対義語はなんなのだ。
こんな不可逆性を持ったものを
正として取り扱っていいのか。

人と共通項があって
安心したりするのは理解できる。
理解できるが
それが進行していくとまた不安になるのだろう。

どこまでいっても
グラデーションの中で過ごしていくのだから
巻き戻せないことに気付き
自分だけのことを探したほうがよさそうだ。

そして人は「なんとなく思うこと」を見過ごしていくらしい。
自分の話だ。
誰かが発した可能性の低いものを
メモリーに保存していく。
それが自分自身のアイデンティティを
作っていくのだとしたら
あまりにもしょうもない
低俗な表現こそかき集めて抱きしめたい。

そんなことをしていると
グラデーションの中に自分が
浮かんでくるのだと思う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?