パンダにシャオシャオ、レイレイと名前を付けるのは適切なのだろうか?
シャオシャオ、レイレイは同じ音の繰り返しで典型的パンダの名前である。
パンダの名前として、人間社会で話題になっているキラキラネームと呼べる名前では無い。まさに様式美を備えた名前であり、ケチの付けようが無いと言えよう。
しかし、シャオシャオ、レイレイも親に付けられた名前ではなく動物園の飼育員に付けられた名前である。
つまりは、人が名付けたのであって、パンダが名付けたのではない。この様式美を感じるのも人間の技があってのものだろう。
パンダだけに限った話しでは無い。他の動物もその動物が名付けたわけでは無く人が名付けたのである。なぜなら、(*1)言語を持たない動物たちに名前を付ける文化はないのである。しかも人間の言語で付けることは自然界ではあり得ない。
個人の犬猫は個人の自由で良いと言える。しかし動物園とは博物館の役割も果たす場所であり来園者に動物をありのままに伝え、教育の場とする使命を背負っている。それにもかかわらず、名前を付けるという人間的な行為、もっと言うと人工的な物を組み込むことは適切と言えるのだろうか?
たしかに、かごや檻がある時点で人工物に囲まれている言われればその通りであるが、それはある程度動物を飼育する上では仕方のないことであり安全に展示するのであれば、なおさら必要不可欠である。
しかし、ことに名前に関してはどうだろうか?人間のように名前を付けないと管理ができないと言うことはなくタグや番号で管理できる。名前を付ける意義とは何なのだろか?
確かに、名前があると呼び名があり、来園者にとってパンダや名前のある動物に親しみが湧くだろう。しかし名前を付けることの最大のデメリットはパンダやその動物たちを擬人化しているところである。擬人化することで人間的な目線でその動物を見ることである。
カワイイや気持ち悪いと言った感想は個人の物でありそれはそれで良いだろう。しかし、名前の付いた動物が2頭で歩き回っているいると「仲良くかけっこしている」と表現する人も多い。この表現は完全に人間的な感覚で捉えた物であり本当に仲がいいか、本当にかけっこしているか深く観察する機会を逸している。このような場合大体、動物はストレスによって同じところ行ったり来たりしているる常習行動であったりする。また、動物の意味の無い行動にも人間的な感覚で捉え意味づけることもしばしばある。
つまりは、正確な情報や事実を見落とすリスクが大きいのである。
このようなリスクがある中、動物園という組織がパンダの名前にシャオシャオ、レイレイと付けることが適切といえるのだろうか。
人間と他種である動物を切り離して考える機会を人間は子供の頃から養う必要性は大きいと思われる。動物園の外に出ると、人間同士の社会が形成されるの周知の事実だが、大人になっても自分と他人を切り離して考えることができない人間は決して少なくないだろう。
この大人が自分と他人を切り離して考えることができない問題を動物園に押しつけるのは無理がある。
しかし、動物園が人間ではない他種の動物に名付けるなど人間の文化を押し付け人間扱いしないで切り分けて考えることは様々な面においてメリットの方が大きいのではないだろうか?
(*1)京都大学と京都造形芸術大学の研究により幼児から発達した人間を除くと、霊長類ですら言語は持たないことは証明されている。
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